テンプル 騎士団−聖杯伝説

第五章

テンプル騎士団の最後


(1) 悲劇的な結末

 フィリップ端麗王は少数の堕落したメンバーに対する予備審問を行い、明らかになった事実を基に、秘密裏に軍隊をフランス中に派遣し、全てのテンプル騎士団員を同日に逮捕した(1307年10月13日)。テンプル騎士団の嫌疑にはひとつの特徴がありました。それは入会時の秘密の儀式に関するものでした。告発は、テンプル騎士団が極秘に、十字架につばを吐き、キリストを否定し、男色を認め、偶像を崇拝しているというものでした。
 そして彼らに対し、過酷な取り調べを行った。証拠がなくても、彼らの自白だけで有罪を宣告することができました。自白を強要するために拷問が必要であり、それは合法でした。 彼らの多くは過酷な拷問を受け、大部分がこれらの罪を認めました。拷問なしで自白をした者もいましたが、それは拷問を恐怖して自白したまでです。グランド・マスターのジャック・ド・モレーも初めは罪を認めましたが、後に証言を翻し、拷問によるものであることを主張しました。テンプル騎士団の弁護は不完全でしたが、団体としての騎士団が異端の教義を認めたり、正統とは異なる教義を持っていたことは証明できませんでした。
 ポルトガル、スペイン、ドイツ、キプロスといったほとんどの国では、テンプル騎士団は無罪となりました。イタリアでも一部の地域を除くと同様でした。困難はあったものの、最終的にはテンプル騎士団の財産やメンバーはホスピタル騎士団が引き継いだことを考えると、実質的には裁判は2つのライバル関係にあった騎士団の合併であったと言うことができる。
  - Catholic Encyclopedia
 

(2) テンプル騎士団は無罪か有罪か?

 尋問や脅迫を使用したにもかかわらず、自白が同一ではないことに注目したい。テンプル騎士団員は彼らの罪とされた全ての不品行を認めなかった。そして大部分が、強くそれを認めなかった。エドワード・J・マーチンが数え上げた、Michletから出版された尋問調書では、1307年のものと、1310-1311年のものがあり、テンプル騎士団による自白の興味深い表を示す。
 
罪状 1307年パリ
証人138名
1310-1311年パリ
証人231名
否認 111 183
唾を吐いた 121 180
接吻をした 109 96
男色の営み 99 78
偶像崇拝 8 8
告解による許しを得た者 1 8
  - Alain Demurger, Les Templiers

(3) スコットランド・コネクション

 ArgyllにあるLoch Aweに近いKilmartin教会には、典型的なテンプル騎士の墓があり、テンプル騎士団の姿が彫刻された墓石が多くある。さらに、メーソンの墓が墓地にはたくさんある。
 ユーグ・ド・パイヤンがサン・クレア家のカテリーヌと結婚して以来、スコットランド地方はテンプル騎士団と強い繋がりがある。事実、聖地の外に最初にできたテンプル騎士団支部は、現在テンプルとして知られるエジンバラの南の、サン・クレア家の領地に置かれた。14世紀の初めまでには、テンプル騎士団はスコットランドに多くの荘園を持ち、人々から好意と尊敬を得ていた。
 テンプル騎士団はWilliam Wallaceを援助していたと伝えられている。1303年にはロズリンの地でスコットランド軍とイングランド軍の間で戦いが起こり、サン・クレア家によって率いられたテンプル騎士団の支援により、勝利した。
  - Christopher Knight & Robert Lomas, The Hiram Key

 ナポレオンがローマを占領した1809年、ヴァチカンの秘密書庫からいくつかのファイルがパリへ持ち出された。この中にはテンプル騎士団の裁判に関するいくつかの文書が含まれていた。これらの中にはトロアの責任者であったヌムール出身の騎士団員Jean de Chalonsの証言記録があった。
  - Johannes and Peter Fiebag, The Discovery of the Grail

 逮捕の前日の1307年10月12日木曜日、私は三台のわらを積んだ荷馬車と50人の騎士の隊長Gerard de VilliersとHugo de Chalonsが夕方パリの支部から出発するのを見た。荷馬車にはVisitator Hugo de Pairaudの全財産が入った金庫が隠されていた。
 それらは18人の騎士が外国へ航海に旅立つ船に積み込まれた。
  - Jean de Chalons
 Zeno Narrativeは100年後、テンプル騎士団の子孫であるOrkney伯ヘンリー・シンクレアが大西洋を西へ謎の航海したことを語る。インディアン伝説やノヴァ・スコティア州への上陸に関するいくつもの手がかりが示された。
 

(4) ロズリン・チャペル

 1312年の解体後、テンプル騎士団がスコットランドに逃れたことが知られています。
 そしてミドロシアン州のロズリンにあるサン・クレア家に保護されていた。
  - Michael Bradley, Holy Grail Across the Atlantic

 我々は繰り返し、ノルマンのサン・クレアー/ジゾール家のスコットランド分家であるシンクレアー家との繋がりに出くわすことになった。彼らの領地は、以前テンプル騎士団のスコットランド本部やロズリン・チャペルがあった場所からほんの数マイル離れた場所にあった。ロズリン・チャペルは1446年〜1486年にかけて建設されたものであり、フリーメーソンや薔薇十字団と関わりがあった。1601年の証書では、シンクレア家が「スコットランドのグランドマスターを相続した」と認められた。これは最古のメーソン文書である。
  - Baigent and Leigh, The Holy Blood and The Holy Grail

 ロズリンチャペルはメーソン的に重要な彫刻で内部が飾られている。そして植物的な重要性。アーチ、リンテル、柱の土台、そこにはさまざまな種類の植物のモチーフで装飾されている。
  - Christopher Knight & Robert Lomas, The Hiram Key

 2つの模様がアロエと、トウモロコシに似ている。これらは新大陸が原産であり、16世紀以前にはヨーロッパで知られていなかったものと考えられている。

 有名な聖杯探求家のTrevor Ravenscroftは1962年、20年間に渡る聖杯探求がロズリン・チャペルで終わったことを宣言した。彼の主張によると、聖杯はロズリンチャペルの螺旋柱の中にあるとのことだ。この教会には現在、多くの聖杯探求者たちが訪れ、聖杯への手がかりは彫刻や窓に見つかる。金属探知機を使って柱や建築物の中に隠されていないか調べられた。ロズリンチャペルの主人は頑なに、柱をX線で調査することを拒否した。
  - Chris Thornborrow, "An Introduction to Current Theories about The Holy Grail"
 

(5) アンティオキアの聖杯
 

@The Metropolitan Museum of Art.

 ニューヨークのメトロポリタン美術館には、1950年に美術館が入手したアンティオキアの聖杯がある。1910年、アラブ人がシリアのアンティオキア近くに井戸を掘っていたところ、この遺物を発見した。外側のカップは金メッキされたリーフで装飾された銀細工のレプッセーであり、その内側に装飾のない7.5×6.5インチの銀カップが入っている。装飾細工は葡萄のつると鳥、動物が絡み合い、12人の男性が座っている。合計で240個の装飾が刻まれている。様式はローマ様式であり、3世紀以降の金属細工、彫刻である。容量は2.5クォート。博物館にある儀式に使う杯としては、最も古い4世紀のものである。以前は、内側のカップは最後の晩餐でイエスが使用した聖杯であるとの主張が広く行われていたが、現在では博物館側は、これらの主張は「ありえない」としている。これは美しい作品であり、1931年のルーブル美術館で行われたビザンティウム美術展、そして1933-34年に行われたシカゴでの万博で高らかに聖杯として展示された。1979年には、メトロポリタン美術館の「Age of Spirituality:Late Antique and Early Christian Art, 3rd to 7th century」に展示された。この杯は特別な物品として、『The Biblical Archaeologist(1942)』、『American Journal of Archaeology』、『American Ecclesiastical Review(1961)』の主題となった。数多くのヨーロッパやアメリカの専門家が、この杯に対する徹底的な調査を行い、何百年間もの間埋められていた、間違いなく4世紀のものであると確認した。
  - Frank C. Tribbe, "The Holy Grail Mystery Solved"
 

(6) テンプル騎士団の財宝

 テンプル騎士団の歴史によると、彼らのものとされる財宝が存在する。神殿の宝である秘密の文書が箱の中に入れられ埋められているか、地下礼拝堂の床石の下に隠されているのだろうか? 財宝は至る所にあり、しかし発見されないで残されている。「解体されたコマンダリーの内、ツルハシや預言の杖を持った多くの予言者の訪問を受けておらず、彼らが有名なテンプル騎士団の財宝を探すために粘り強く地面と格闘し、失望したこともないものはあるのだろうか?財宝については、想像を刺激するいかなるニュースも書かれたことはないし、夢想を生むこともなかった。」専門家の中には、ジャック・ド・モレーは王の軍隊が介入することを10月12日に知り、藁で覆われた3台の荷車を借り、テンプル騎士団に好意的で、王に対抗できるイギリスへ向けて出発したと考える者もいる。 ジェラール・ド・セードは輸送隊に付き添った12人の高官について言及する文書を引用する。目立たないように遠回りした荷車はどこかへ消えていった。テンプル騎士団の宝の存在についての疑い、そしてテンプル騎士団の記憶が隠されているという不確かな場所への疑いは、哲学的な探索として強く残る。
  - Michel Picar, "Les Templiers"

(7) 大西洋を渡った聖杯

 『Holy grail across the atlantic(大西洋を渡った聖杯)』の基本的なアイディアは、あるカタリ派の集団がモンセギュール陥落のずっと後、1398年の異端審問を逃れ、ヘンリー・リンクレア卿の助けと彼が見つけた航海図によって現在のノヴァ・スコシアに逃れたというものだ。テンプル騎士団もこの船に乗っていたことが知られている。実際、ダンテの神曲にもテンプルの騎士についての記述がある。いずれにせよ、これらの約200名はフランスの探検家シャンプランによってモントリオールに密航した。モンレアルはカタリ派の城の名前でもあった。
こうして、ノヴァ・スコシアのオーク・アイランド、カタリ派、テンプル騎士団、聖杯伝説が全て繋がる。

書籍
 
正統と異端 第二巻:テンプル騎士団とヨハネ騎士団
著者:Gilles C H Nullens
訳者:高橋健
無頼出版


第一章:テンプル騎士団の創設
第二章:聖杯の騎士
第三章:聖杯の物語
第四章:テンプル騎士団のミステリー
第五章:テンプル騎士団の最後
第六章:テンプル騎士団の痕跡