オーク・アイランドの埋蔵金


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本土とオーク・アイランドを繋ぐあぜ道

(1) 縦坑の発見

1795年、Daniel McGinnis少年は、ノヴァ・スコシア州のオーク・アイランドで、地面が円形に窪んでいる場所を発見した。その窪みの上に生える木には、滑車を使うために枝が切られたような跡があった。この辺りには海賊の話もあり、少年は一度家に戻り、穴を調査するために友人を連れ帰った。それから数日間、McGinnisと友人のJohn SmithとAnthony Vaughanは穴を調査した。1フィート(30cm)掘ると、穴を覆うように敷石が現れた。10フィート(3m)掘ると、オークの木の層が現れた。20フィート(6m)、30フィート(9m)の地点にも同じオークの木の層があった。少年達にはこれ以上の探索は不可能であり、家へ帰って行った。

彼らは8年後に調査に戻った。調査のためにOnslow Companyを作り、発掘を再開した。彼らはすぐに8年前の30フィートの地点まで掘り返し、それから90フィート(27.5m)の地点まで掘り進めた。10フィートごとにオークの木の層が現れた。また40フィート(12m)の地点では一緒に木炭の層が、50フィート(15m)の地点ではモルタルの層が、60フィート(18m)の地点では椰子の木の繊維の層が見つかった。

90フィートの地点で、謎の文字が刻まれた石を発見した。
 

解読すると、Forty feet below, two million pounds are buried.

90フィートの地点に到達したところで、縦坑には水が浸入してきた。次の日には33フィートの地点まで浸水していた。ポンプでの排水は上手くいかず、翌年にはその縦穴と平行に地下100フィート(30.5m)まで掘り進め、そこから元の縦穴へ横に掘った。そうしたところ再び水が浸入し、調査は以後45年間行われなかった。

(2) 仕掛け

巧妙な仕掛けがあることが判明した。縦坑の設計者は、スミス湾から縦坑まで続く長さ500フィート(150m)の地下水路を作っていたのだ。いくらポンプで水をくみ出しても、海水が溢れてくる。しかし、この仕掛けは、縦坑の設計者が作った財宝を守る仕掛けのごく一部に過ぎなかった。

これまでに"Money Pit"の設計者が誰であるか直接的な証拠を見つけた人はいません。

(3) 財宝の手がかり

1894年には、次のTruro Companyが設立され、探索が再開された。86フィートまで掘り下げたところで、再び水が溢れてきた。彼らは掘り出す前に、埋められている物を特定しようと、ボーリングを行うことにした。ボーリングからは有望な結果が得られた。98フィート(30m)の場所で、ドリルはトウヒの層を貫通した。次に4インチ(10cm)の厚さのオーク、22インチ(55cm)の厚さの金属片。次に8インチ(20cm)のオークと別の22インチの金属片、4インチの厚さのオークと、別のトウヒの層が続いた。結論としては、ドリルがコインの詰まった2つの樽(または宝箱)を貫通したと考えられる。ドリルを引き上げると、オークの破片と、椰子の実の繊維が見つかった。このボーリングでは、金の鎖の一部分が引き上げられたという記録もあるが、残念ながら、それがどこへ行ってしまったかは不明である。

興味深いことは、この一番下のトウヒの層のさらに下の層は、柔らかかったことだ。つまりこの縦坑はもっと深い物である可能性が出てきた。どれくらい深いものなのか、それを明らかにするのはこれ以降の調査グループが行うことになった。

(4) 人工浜

Truro Companyは1850年にもう一本別の穴を縦坑と平行に掘る作業を再開した。以前と全く同じように、水が浸入した。彼らはポンプで水をくみ出そうと試みたが、不可能であった。このポンプ作業中、干潮時にスミス湾の浜に水がわき出しているのが発見された。

縦坑の設計者は、145フィート(45m)の広さの砂浜の下に、水路を造っていたことが分かった。地下に作られた石の水路は、放射状に砂浜の下に広がっていた。水路は石で作られ、内側は海草と椰子の繊維で覆われていた。このフィルターによって、水路が泥や砂で埋もれることなく、水が流れることが可能であった。放射状に広がる水路は、縦坑から500フィート(150m)離れた内陸側で一カ所に集まり、さらに下へ潜っていた。後の調査で、この地下水路の幅は4フィート(1m)、高さ2.5フィート(75cm)であり、縦坑の95-110フィート(30-33.5m)辺りへ繋がっていた。

Truro Companyの答えは簡単であった。浜からの水の流れを止めて、宝を掘ることにした。最初に、スミス湾にダムを建設し、排水し、水路を破壊することに着手した。残念ながら嵐がやってきて、完成前にダムを破壊した。

このダムの建設中、古いダムの痕跡が見つかっている。

次の計画は、内陸側で水路が一カ所に集まっている地点の地下100フィートまで掘り下げ、水路をふさぐことにした。この計画は完全に失敗に終わった。そしてこれがオーク・アイランドでのTruro companyの最後の試みとなった。

(5) 縦坑の崩落

次の財宝探しの試みは1861年、Oak Island Associationによるものであった。始めに縦坑を88フィート(27m)まできれいにした。次に縦坑の東側に穴を掘り、海からの水路に到達する試みであった。新しい穴を120フィート(36.5m)まで掘り進めたが、水路に到達することはできず、穴は放棄された。

2本目の穴が縦坑の西側、地下118フィート(36m)まで掘られた。そこから縦坑まで掘り進める計画であった。再び穴には水が浸入してきたが、排水は上手くいった。そして突然穴の底が落下した。通路には水が押し寄せ、縦坑の底が15フィート(4.5m)以上も落下した。なぜ、そしてどれくらい落ちたのか?

以降数年間に渡って、いくつものグループが謎の解明に取り組んだ。彼らはたくさんの穴を掘り、浜からの水路を塞ごうと、新しいダムを造り、多くのボーリング調査を行った。手応えは全くなかった。

1858年から1862年の間の作業で、ボイラーの爆発により3人の作業員が亡くなっています。

(6) 換気抗

1893年にはFred Blairとその仲間達によるOak Island Treasure Companyが作られ、調査が始まった。初めの調査は換気抗を調べることであった。これは1878年に縦坑の350フィート(107m)東で発見され、この換気抗は縦坑の設計者が水路を掘るときに使った換気抗のようであった。それは水路とぶつかっていた。Treasure Companyがそれを掘り返している間、55フィート(17m)の深さで浸水し始め、放棄された。

続く何年間、Oak Island Treasure Companyはさらに多くの穴を掘り、水をくみ出したが、当たりはなかった。1897年、彼らは縦坑を111フィート(34m)まで掘り下げ、水路の入り口に到達し、石を使って水路を塞いだ。しかし水は再び溢れ、縦穴を満たした。

Treasure companyはスミス湾からの水路をダイナマイトで破壊し、水の流れを食い止めようとした。水路の近くに穴をいくつか掘り、爆薬を5カ所しかけた。しかし上手くはいかなかった。水は今までと同じく、縦穴に流れ込んでいた。

この時行ったボーリングは驚くべき結果であった。

(7) セメント製の箱

126フィート(39m)の深さで、木の層に、次に鉄にぶつかった。これはおそらく、縦穴が崩れたときに落ち込んだ材料の一部である。別のボーリング調査では、122フィート(37m)で木にぶつかり、鉄には当たらなかった。これは陥没によって層がばらばらになってしまったことを示している。

130フィート(40m)から151フィート(46m)の間と、160フィート(49m)から171フィート(52m)の間には、粘土と砂、水からできた青い粘土層が見つかった。この粘土層は水を通さない層を作るために使われ、おそらく50フィート(15m)の深さで見つかったモルタルと同じものだ。

大きな発見はこの粘土層の間で見つかった。セメント製の箱が発見された。箱は高さ7フィート(2m)、厚さ7インチ(20cm)であった。箱の中を貫通したドリルは最初に木の層、次に何もない数インチの空間、次に未知の物質にぶつかった。その次に柔らかい金属の層、3フィート(90cm)の金属層、もっと柔らかい金属層を貫通した。

別の穴を掘ったドリルが持ち上げられたときにはさらに謎が加わった。ドリルの先端にくっ付いていた羊皮紙片には、"vi"と"ui"または"wi"の文字が書かれていた。羊皮紙が一部分であったことが、問題であった。

この島の地下には財宝が眠っていることを確信した財宝探したちは、セメントの箱へさらに多くのボーリングを行い始めた。それら全てが浸水のため失敗に終わった。

(8) 2番目の地下水路

驚くべきことに、1899年5月、もう一つの地下水路が発見された。2番目の地下水路があったのだ。これは南側の入り江にあった。設計者は以前考えていたよりも多くの、そして巧妙な仕掛けを作っていた。この発見によって、地下には貴重な何かが埋まっているという印象がさらに強まったが、その仕掛けが宝物に近づくことを遠ざけていた。

BlairとOak Island Treasure Companyはさらに多くのボーリングサンプルを掘りつづけたが、新たな発見は得られなかった。

1900年から1936年の間にも、財宝発掘の試みが行われたが、全てが失敗に終わった。

(9) 石の破片

1936年、Gilbert HaddenはFred Blairと協力して、島の新しい調査を始めた。Haddenは縦穴近くの以前の縦穴を掘り返し、翌年夏のボーリング計画を立てた。しかし彼は縦穴ではないところから2つの発見をした。

最初は、縦穴の90フィート底から見つかった文字が刻まれた石に似た、石の破片を発見した。2番目の発見はスミス湾の木材であった。それらの木材は金属ではなく、木製のくぎを使って繋がれているので、縦穴の設計者が使った木材でないかと考えられた。後年明らかになったことだが、これらの木材は巨大な建築の一部分に過ぎなかった。

(10) 謎が深まる

次の財宝探しはErwin Hamiltomであった。彼は1938年から以前の縦穴を掘り返し、またボーリング調査を始めた。1939年、ボーリング調査によって、2つの新たな発見があった。最初は地下190フィート(58m)での岩と砂利の発見であった。Hamiltonによれば、それは誰かが外から持ち込んだものであった。2番目の発見は以前の縦穴を176フィート(53.5m)まで掘り下げたとき起こった。この場所で石灰岩の層にぶつかり、ドリルは穴を開けた。ドリルはオークの木片を引き上げた。天然の石灰岩の下に、木があった。

(11) 悲劇

1959年、Bob Restallと彼の家族は、最終的には悲劇で終わった、島の調査を開始した。

彼はスミス湾の地下水路をふさぐ作業中に、一つの発見をした。彼は1704と刻まれた岩を発見した。他の人たちはそれを以前の調査チームが残した、いたずらだと考えたが、Restallはそれが本物であると信じた。

1965年に悲劇が起こった。縦穴を発掘中に、Bobは気を失い、穴底に溜まった水の中へ落下した。
彼の息子Bobbieと他の2人は彼を救出しようと試みた。しかし4人全員が何らかのガス、おそらく一酸化炭素中毒により気を失い、溺死した。

(12) 重機

本島と島を結ぶ陸橋は1965年に建設され、宝の発掘のための重機を輸送することができるようになった。今日、この橋は鎖で封鎖され、「私有地/狩猟・立ち入り禁止/危険」と標識がある。

Bob Dunfieldが次の挑戦者である。1965年、彼はブルドーザーとクレーンを使って問題を解決しようと試みた。彼はスミス湾からの地下水路をふさぎ、それは成功したようでした。次に島の南側に、溝を掘り、もう一つの地下水路を見つけてふさごうとした。地下水路は見つからなかったが、縦穴の設計者が掘ったと思われる未知の埋め戻されたトンネルが見つかった。トンネルは45度の角度で下り、終わっていた。その目的は不明である。

Dunfieldのもう一つの発見はボーリング調査によって見つかった。140フィート(42.5m)の地下には2フィート(60cm)の厚さの石灰岩の層があり、その下層には40フィート(12m)の空間があることが明らかになった。その空間の下は岩盤でした。この情報は以前の1955年に行われたボーリング調査と一致している。それは世界中の石灰岩地帯でごく普通に見られる自然の鍾乳洞のように思われた。

(13) 最近の発見

現在の調査者Daniel Blankenshipは1965年に調査を開始した。1966年、彼はBob Dunfieldが1965年に発見した縦穴をさらに掘った。縦穴は45フィート(14m)以上あることが分かった。60フィート(18m)の地点で人為的な活動の跡、くぎとボルトを発見した。
90フィート(27.5m)の地点では、水の中の岩の層にぶつかった。彼はこれを南側の地下水路の一部と考えた。しかし縦穴が崩壊し始め、それ以上の調査を行うことはできなかった。

鉄のはさみが1967年、スミス湾の地下水路の下から発掘された。
それはメキシコで作られたはさみと同定された。最大で300年前のものです。またハート型の石も発見された。

調査を続けるためにBlankenshipによって結成されたTriton同盟によって、1970年スミス湾の秘密がいくつか明らかにされた。Tritonが新しいダムを建設中、彼らはオジリナルの設計者が作ったと思われるダムの残骸を発見した。2フィートの厚さで、65フィート(20m)の長さの数本の丸太も発見した。それには4フィート(1m)ごとに数字が刻まれ、また木製のくぎが打ち込まれたものもあった。放射性炭素年代測定によって250年前のものだということが判明した。

島の西端でもいくつかの物品が発見された。西側の浜では、鉄くぎと金属製のワイヤーが発見された。浜の地下9フィート(3m)からは革靴が見つかった。

長年の間、この幻の財宝について、ダウンジング、自動筆記、千里眼、霊媒師、タロット占い、夢判断、心霊考古学者、または鉱物波光線検出器、飛行機に積んで行う財宝臭検出器といった奇妙な機械があったが、一つも成功を収めていない。

財宝が手に入れるのが困難であればあるほど、想像が膨らんでいった。縦穴や地下水路、仕掛けといった構築に必要な途方もない作業によって、海賊の隠し財宝が、フランスの王冠の財宝や、シェークスピアの手稿、テンプル騎士団の失われた財宝、聖杯、失われた大陸アトランティスの秘密に取って代わられていきました。

(14) ボーリング10-X

次の大きな発見は1976年、Tritonが10-Xとして知られるボーリングを行ったとき見つかった。237フィート(72m)の鉄管を縦穴の180フィート(55)北側に打ち込みました。230フィート(70m)まで掘り下げたところで、いくつかの明らかに人工的な穴が見つかった。

カメラを230フィート(70m)まで下ろしたところ、驚くべき映像が映し出された。初めに切断された手が水に浮かんでるのが見えた。そして映像から3つの宝箱、さまざまな道具が判別できた。最後に人間の遺体が発見された。

映像を見た後、ダイバーを送り込むことに決めた。いくつかの試みが行われたが、流れが強く、視界が悪いことで、何も見ることができなかった。

その後すぐに穴は崩れて、再び開けられていません。

"Money Pit"は1960年代に閉じられました。ここ25年間の調査は、140フィート北東のボーリング穴10Xに対して行われています。

(15) 疑い

疑いは1795年の縦穴の発見そのものから始まる。3人組の若者は、くぼんだ地面の上の木の枝に吊るされた船の滑車を見つけたと言われている。これは財宝を隠すためには何らかの降ろす装置が必要であるという仮説に基づいた、作り話と考えられる。それでも何人かの作家たちは詳細に、「枠付き滑車」がオークの木の又になった枝に木釘で固定されていた。別の記述では、木に「奇妙な印」が付けられていたというものもあった。一方では海賊または財宝の持ち主がそのような明らかな印を残したというのも信じがたい。物語の別のバージョンでは、木の枝が切られ、切り株にはロープと滑車の証拠が見つかった。

1911年、技術者のCaptain Henry L. Bowdoinは島で多くのボーリング調査を行い、財宝など存在しないと結論付けた。彼はさまざまな疑わしい発見物(暗号石や金の鎖の断片)の信憑性に疑問を呈し、その他のものも単に自然現象であるとした。次の懐疑者は縦穴と呼ばれているものは、岩盤に空いた穴が原因の落ち込み穴に過ぎないと主張した。オークアイランドの地層は基本的に石灰岩と石膏であり、鍾乳洞や塩ドームの形成と関係している。鍾乳洞の上の地表は、断層や亀裂、落ち込み穴などの特徴がある。

しかし財宝探しやミステリー屋さんは、すぐに縦穴やトンネルが落ち込み穴や自然の水路に過ぎないという考えを捨て去る。「初期の記述は誇張や明らかな嘘なのか?」と作家は言う。「例えば、縦穴の壁に見られるツルハシの跡は?」我々はすでにオークの木の枝や、滑車についての物語の要素で、いかに信頼できないものか見てきました。ではさまざまな深さから見つかった遺物(羊皮紙片)やヤシの木の繊維(船荷を守る荷敷きとしてしばしば使われた)は?もう一度、落ち込み穴理論は、このような物品がどのように島の地下の洞窟に流れ込んだのかを説明します。

「縦穴」が自然現象だと仮定して、オーク・イランドの謎の主要断片についてはどうか?1803年に縦穴の中で見つけられたといわれている暗号石は?1897年に発見された大きな等辺三角形(浜辺の石で作られ、片の長さは10フィート)の石は?Fred Nolanが1981年に南の浜で見つけた大きな石の十字架は?

人工物が存在する。もちろん、沼地で見つかった古い焼きごてのような多くのものは、単に昔の住人の残骸にすぎません。1849年、縦穴の中で見つかった金の鎖のようないくつかは疑わしい。ある報告は、それらが事業を続けるために作業員によって置かれたものであることを支持する。

今日、2世紀に渡る発掘によって、島の東端は穴の開いた蜂の巣のようになっていて、トンネルやドリルの穴があらゆる方向に走っている。複雑な地中の状況が、オリジナルの縦穴の状況を決めるのを難しくしている。地層の重なりが落ち込んだことによる、落ち込み穴だという提案があるが、ある作家が記しているように、この中身は周囲より柔らかかっただろう。そしてそこは以前掘られたかのような印象を受けるだろう。その崩落とともに木も沈んだか、定期的に風でなぎ倒されたものがくぼみの中へ流され、腐った丸太の層ができたとも考えられる。

(16) 今日

だいぶ前のことですが、Blankenshipともう一人の島の住人Frederick Nolanの間に争いが起こったことがありました。「ある日Blankenshipはライフル銃を持って、険悪な状態が起こっていました。最終的には警察が呼ばれ、仲裁に入り、銃は没収されました。」

調査が進まなかった理由は2つあります。モントリオールに住む投資家のDavid Tobiasとオーク・アイランドのDan Blankenshipの調査方法に関する意見の相違がありました。これは訴訟にまで発展しました。(2003年に和解しました。)第二に資金が不足しています。島は現在立ち入り禁止です。観光はできません。
 
 

立ち入り禁止

"Money Pit"の底にたどり着く技術は、いつでもあります。直径13フィートの場所から少し離れて、そこから緩やかに穴を掘っていけば、望む深さまでどこまでも掘り進めることができます。しかし10億円以上かかるでしょう。

BlankenshipとTritonは今でも探求を続けている。

書籍
 
オーク・アイランドの埋蔵金
著者:Graham Harris & Les MacPhie
訳者:高橋健
無頼出版

 

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