出エジプト記およびモーセの史実性を検証



シナイ山登頂時に撮影

出エジプト記の年代

(1) 年代の計算

これはマネト(紀元前3世紀の古代エジプトの歴史家、神官)による主張である。この出来事が起きた年代については、彼が書き留めており、これらをまとめると、私たちの祖先に他ならない、ここで呼ばれているこれらの羊飼いたちがエジプトを脱出し、それ以降この国に住むようになったのは、ダナオスがアルゴーにやってくる393年前のことである。アルゴー市民は彼を最も古い王と考えているが、マネトは私たちの目的に最も大きな影響を与える2つの点および、エジプトの記録から得られた証言を聞く。そもそも、私たちの祖先は他の国からエジプトにやってきました。そしてそこからの脱出は、トロイの包囲よりも1000年以上も古い時代のものです。しかし、マネトが付け加えるものについては、エジプトの記録ではなく、出所不明な物語を根拠に彼自身が話したことであり、私はこれからそれに反論し、戯言に過ぎないことを示します。
  - フラウィウス・ヨセフス、アピオーンへの反論1:16(紀元前3世紀のエジプト神官マネトを引用)

一般的にトロイの包囲は紀元前1280年頃だとされている。もし、出エジプトがそれよりも1000年前に起こったとすると、ユダヤ人の逃亡は東方からリビア人とベドウィンが侵略し、エジプトの古代王朝が崩壊する直前、カナン人の帝国が衰退したときに起こった。
しかし、マネトが名前をリストした(「アピオーンへの反論1:15」)ヒクソス侵略後のエジプト王の名前を、エジプト学者が使用したものと関連付けることは非常に困難である。また、リストに従い各ファラオが統治した期間の長さを合計するとラムセス2世までに3023か月となるが、従来の期間では合計で263年である。

クテシアスが言うように、アッシリアがギリシャよりもずっと古いなら、エジプトからのモーセの脱出はアッシリア帝国の42年、つまりはベロクス治世32年目、アルゴーのイナクスの時代に起こったと思える。
  - - Clement of Alexandria, Stomta

古代アッシリア帝国は紀元前2000-1450年までさかのぼり、出エジプトは紀元前2000年頃だろう。

このプトレマイオスは司祭である。彼はエジプト王の記録を3冊の書物にまとめた。エジプト王アシモスの治世下で、モーセの指揮によりエジプトからユダヤ人が脱出したと記している
  - Clement of Alexandria, Stomta

アーモスはヒクソス侵略後の最初のエジプトファラオであり、第18王朝を立てた。ユダヤ人の出エジプトと、ヒクソスの出発の間には混乱があるようだ。

彼ら(ヒクソス)は皆エジプトから逃れ、どこか安住の地を探していた。これらの条件に基づいて、24万世帯以上がエジプトを去り、砂漠を渡ってシリアに移住した。
その後、当時アジアの支配者であったアッシリア人を恐れた彼らは現在ユダヤと呼ばれる国に都市を建設し、エルサレムと名付けた。
  - ヨセフス、アピオーンへの反論1:14


(2) 従来の年代

聖書およびエジプトのパピルスの両方とも、ラムセス2世の建築プロジェクトで雇われた労働者「ハピル」について記している。
  - Bible Lands

しかし、ユダヤ人は満たされ、大いに繁栄し、人口も増え、土地は人で満たされた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
国民に警告した。「ユダヤ人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」。エジプト人はそこで、ユダヤの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。ユダヤの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
  - 出エジプト記1:7-11

しかし、創世記47:11でははっきりと、ヨセフがエジプトの王になったとき、「ファラオが命じたように、父(ヤコブ)と兄弟たちの住まいを定め、エジプトの国に所有地を与えた。そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった」とある。そのため、ユダヤ人はラムセスと呼ばれる最初の王がエジプトで王位に就く数世紀も前に、ラメセス地方に定住していた。
ラムセス2世が聖書の抑圧や出エジプトを行ったという説得力のある証拠はない。ラメセスの都市についての記述は、単に時代錯誤に基づくものかもしれない。
ユダヤ人はピラメセスの場所に都市を建設したかもしれないが、必ずしもラムセス2世の首都および居住地を建設したとは限らない。実際、聖書にある出エジプト記の年代(紀元前1447)は第19王朝の年代(紀元前1295-1186年)と全く一致していない。ラムセス2世とユダヤ人の捕囚の繋がりは、考古学的根拠のない幻想であった。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 115, 138


(3) 天文学による逆計算と列王記上

ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、ユダヤ人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがユダヤの王になってから四年目のジウの月、すなわち第二の月であった。
  - 列王記上6:1

エドウィン・ティーレ著『The Mysterious Numbers of the Hebrew Kings(1983)によるユダヤ王の年代では、ソロモン王の即位は紀元前931年頃である。つまり、神殿は928年に建設され、モーセはそれより480年前の紀元前1447年頃にエジプトからユダヤ人を連れ出した。出エジプトの年代は士師記11:26の記述「約束の地の征服から士師エフタ(紀元前1110年頃)まで約300年」からも支持される。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 249

「ユダヤはヘシュボンとその周辺の村落、アロエルとその周辺の村落およびアルノン流域のすべての町々に三百年にもわたって住んできた」
  - 士師記 11:26

バビロニア人の金星観測から天文学的に逆計算したところ、バビロニアの第1王朝のアンミツァドウカの1年目は明確に紀元前1419年である。これはレバントの考古学者が現在提唱する紀元前1582年の「低い年代」より163年前、紀元前1646年の「中間の年代」より227年前である。(訳注:金星の位置を記録した粘土板が発掘されており、その位置となるのは紀元前1702年、紀元前1646年、紀元前1582年、紀元前1550年の可能性がある)。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 245

これにより、ハンムラビ王の治世は紀元前1565-1522年ごろである。この同時代人、ビブロスの街の統治者Yantin Ammuの名前が、Byblosで発掘された石灰岩の平板に記載されており、これと一緒に一部が壊れた象形文字(最も可能性が高いのはエジプト第13王朝の21番目の王カーセケムラー・ネフェルヘテプ1世)がある。

13王朝のファラオであるネフェルヘテプ1世の統治は従来の年代学による紀元前17世紀初めではなく、紀元前16世紀の後半である。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 249

初期のキリスト教歴史家エウセビオスは著書『Evangelicae Preparationis』の中で、(紀元前3世紀後半に書かれた)ユダヤ人歴史家アルタパヌスの『Peri Ioudaion』(内容はユダヤ人について)を引用している。アルタパヌスのこの著書は現存していないが、クレメントの『ストロマータ』でも引用されている。
  - John Fulton, "A New Chronology - Synopsis of David Rohl's book 'A Test of Time"

アルタパヌスはおそらくエジプトの大きな神殿やプトレマイオス1世が設立した有名なアレクサンドリアの図書館が保有していた古代の記録にアクセスできた。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 252

アルタパヌスは、パルマノテスというファラオがユダヤ人を迫害していたと書いている。彼の娘メリスはヘブライ人の子供を養子に取り、Mousosという名前の王子となった。メリスはファラオ・ケネフレスと結婚した。Mousos王子は成長し、ファラオに代わり国土を支配した。彼はエジプトを侵略していたエチオピアに対する軍勢を率いた。帰国後、Khenephrêsは彼の人気の高まりを妬んだ。Mousosはアラビアに逃れ、ケネフレスが死ぬと帰国し、ユダヤ人を自由にした。
  - John Fulton, "A New Chronology - Synopsis of David Rohl's book 'A Test of Time"

アルタパヌスによると、ギリシャ名「ケネフレス」はエジプトの王名「カーネフェルラー」を表し、地平線に完全な輝きを放つを意味する。
エジプトのすべての歴史の中で、この名前のファラオはたった1人しかいない。ネフェルヘテプ1世の死後、その息子サハトホルが短期間統治し、ネフェルヘテプ1世の弟が第13王朝の23番目の王座に就いた。彼は出生時にセベクヘテプ(sebekuは満足)であったが、即位名はカーネフェルラーである。高名なアメリカ人エジプト学者James Henry Breastedは、 エジプト第2中間期の政治状況を評価し、このセベクヘテプがこの時代で最盛期であったとしている。そのため、モーセの誕生はこの新しい、強力なファラオ・カーネフェルラー・セベクヘテプ4世の出現と一致し、彼の統治下でモーセはエジプトの王子として育った。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 255

ヨセフスは著書『ユダヤ古代誌』の中で、紀元93年に書かれた古い書物にアクセスし、モーセのエチオピア(またはクシュ)戦争について記載している。ここで、モーセはエジプト軍を率いてナイル河谷を下り、第3キャタラクトを通過し、クシュ(現在のエチオピア)まで侵攻した。大英博物館には、第13王朝のファラオがクシュ地域の南側で軍事行動を行ったことを伝える石碑がある。アルタパヌスによると、そのファラオはモーセの継父であるカーネフェルラーに他ならない。彼はヌビア南部またはエチオピアで軍事行動を行ったことが記録されている唯一の第13王朝のファラオである。ナイル川沿いのケルマーでは、正式なエジプトの建築物が見つかり、その郊外にはカーネフェルラーの像が発見されたため、この建物は第13王朝まで遡る。ここは第13王朝エジプトの既知の国境より数百キロメートル南にあり、支配者の邸宅であった可能性がある。これはモーセが率いたエジプト軍の勝利の後、この地域でエジプトの権益を守るために建設されたものであり、これはエジプトとのクシュ戦争のときのみである。モーセはエジプトの王子であり、聖書によると40歳のときにアラビアに逃れた。彼は確かにこの軍事作戦を指揮し、ユダヤ人がエジプト軍を率いて戦ったはずだ。ヨセフスの記述のこの部分が真実であれば、モーセの生涯についての残りの部分についても彼の記述に信憑性を与え、このカリスマ指導者が実在していたというより強固な証拠を与えてくれるだろう。
  - John Fulton, "A New Chronology - Synopsis of David Rohl's book 'A Test of Time"



ゴシェンの土地

(1) 考古学的証拠

ヘリオポリスはエジプトの太陽神崇拝の大きな寺院のあった、エジプトの都市オン(エジプト語では「イウヌ」)である。これら2つの場所でユダヤ人奴隷が行った建築工事は、ラメセスの都市(ピラメセス、ゴシェンにあるラメセスの土地)およびピトム(ピアトゥム、太陽神アトゥムの土地、オン/ヘリオポリスと同一視されることもある)に対応している。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 253

発掘は30年以上にわたり、エジプトのテル・アル=ダバアムラ近くで続けられている。このナイルデルタ地域では、大規模な中期青銅器時代の住居が見つかっている。これはゴシェン地域であり、発掘は聖書の都市ラメセス(またはラメセス2世の都市ピラメセス)近くである(出エジプト記1:11)。ここでの定住はエジプトの第12王朝から第20王朝までの期間に及ぶ。この古代都市は最盛時には10平方キロメートルの大きさとなり、古代における世界最大の都市の1つであった。ここは放棄されるまで800年存続し、その後、この都市の石はタニスを築くために使用された。
  - John Fulton, "A New Chronology - Synopsis of David Rohl's book 'A Test of Time"

層位学の場所から予測される標準の年代決定では、第19王朝の職業レベルでは、ユダヤ人の入植地は見つかっていない。エジプト新王国のピラメセス(聖書のラメセス)内にはこれまでのところ、多くのアジア人が暮らしていたという従来の仮説を裏付ける証拠は発見されていない。
エジプトの歴史の中で、多数のアジア人が東デルタ(つまりゴシェン/ケッサン)で暮らしていたという考古学的に確実な証拠はエジプト第2中間期である。
「エジプトでのユダヤ人の滞在は第12王朝後期に始まり、第13王朝のほとんどを通して続いた。エジプトの考古学的記録では、中期青銅器IIAとして知られるアジア文化として表される(訳注:エジプト学の文脈では、アジア人と言う用語はレヴァントやシリア、アナトリア地方南岸の人々を指す意味で使用される)。エジプトへのユダヤ人の主な入植は、ゴセン地域のアヴァリス市であった。彼らの考古学的遺物は、テル・アル=ダバア遺跡HからG/1の住居と墓に代表される」。

「テル・アル=ダバアの墓の分析では、アヴァリスの埋葬人口は男性よりも女性の方が多いことが示されている」。
さらに、「埋葬者の65%18か月齢未満の子供であった。前近代社会から得られた最近の統計的証拠に基づいて、幼児死亡率は20%30%であることが予想される」
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 273, 277, 271


(2) 文書証拠

「しかし、ユダヤ人は満たされ、大いに繁栄し、人口も増え、土地は人で満たされた」
  - 出エジプト記1:8-14

「モーセの前、聖書はユダヤ人がエジプトの王によって奴隷にされたことを記録している(出エジプト記 1:8-14)。ブルックリン博物館には、Brooklyn 35:1446という番号のパピルスの巻物があり、これは19世紀後半にCharles Wilbourが購入したものである。これはネフェルヘテプ1世の前の王セベクヘテプ3世の治世下、つまりモーセより1世代前を統治したファラオである。このパピルスは奴隷の移送についてのファラオの命令です。記載されている95名の奴隷の内、50%がセム系の名前です。さらに、これらの奴隷の名前は元のセム語で記載され、その後にエジプト名が割り当てられている。このようなエジプト人の習慣は聖書が記録しているものと同じである。(参照:ファラオがヨセフに名前を与える創世記41:45)。一部のセム系の名前は聖書に登場し、次のようなものがある。

Papyrus Brooklyn 35.1446について:
「この時代、これほど多くのアジア人奴隷がどのようにエジプトにやってきて、どのようにして庶民の家庭で召使いとして働いたのか疑問に思うだろう。女:男の割合はここでは約31である」
  - W. C. Hayes A Papyrus of the Late Middle Kingdom in the Brooklyn Museum (1952), p. 92

「しかし、ユダヤ人は満たされ、大いに繁栄し、人口も増え、土地は人で満たされた」
  - 出エジプト記1:7

「アジア人男性人口の減少は、(未検証の)北部での一連の戦争のせいではなく、むしろユダヤ人の脅威を軽減するためにエジプトの一部の地方で行われた意図的な男の嬰児殺しの政策の結果である」
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 278

「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」。
ファラオは全国民に命じた。「生まれた(マソラ本文、サマリア五書、七十人訳聖書、タルグームでは「ユダヤ人に生まれた」)男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」
  - 出エジプト記1:15-16, 22

「奴隷となったアジア人の召使いは13王朝のさまざまな文書に記録されており(特にPapyrus Brooklyn 35.1446)、モーセの指導の下でエジプトを去った種々雑多な人々なアジア人集団(出エジプト記:12:38)と特定される。ヤコブの子孫であるユダヤ人がこのグループの大部分を形成し、多くのヘブライ語/ユダヤ系の名前がこの時代の文書で確認できる」
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 278


十の災い

 十の災いとは、古代エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人を救出するため、エジプトに対して神がもたらしたとされる十種類の災害のこと。

13王朝中期まで遡るテル・アル=ダバアのG/1地層の終わりから、Bietakの考古学チームは恐ろしい場面を明らかにした。アヴァリス市の全域で、彼らはいくつかの恐ろしい災害の被害者たちが急いで投げ込まれた浅い埋葬穴を発掘した。死者に対する敬意が払われてはいなかった。遺体は適切に埋葬されておらず、集団墓地に積み重ねるように投げ込まれていた。通常あるはずの、遺体の副葬品は見つからなかった。
遺跡の考古学的分析からは、街で生き残った人口のほとんどが家を捨て、アヴァリスから集団で移住したことを示唆している。この場所はその後、不明な期間の後、「エジプト人化」されていないアジア人が以前の地層Gのように再び暮らすようになった。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 279

Rohlはこれら次のアジア人居住者はヒクソス(第2中間期の終わりにエジプトに侵入し、2世紀以上支配した民族)であると考えている。

古いミドラーシュの資料では、ピトムとラメセスの壁が崩れ、部分的に地中に飲み込まれ、多くのユダヤ人がその時死んだと記されている。
  - Immanuel Velikovsky, Ages in Chaos

チュティマオス(第13王朝の後期の支配者の一人ファラオデドゥメス。彼の治世下、原因は不明であるが、神の爆発で死者が出た。そして予期せぬことに東の方向から、不明な侵略者たちが我々の土地に侵攻を開始した。戦わずして、彼らの主力が易易と土地を占領した。彼らはその地域の支配者をは押した後、我々の都市を冷酷に燃やし、神殿を破壊し、すべての住人を残忍に扱い、一部を殺し、女子供を奴隷とした。最終的に、彼らはサリティスという一人の王を立てた。
  - ヨセフス、アピオーンへの反論1:14(エジプト神官マネトを引用)

トリノ王名表を使用し、カーネフェルラー・セベクヘテプ4世(Rohlの新年代表によると紀元前1529-1510年頃)から第13王朝の12名の王デドゥメス(おおよその日付範囲はデドゥメスの即位紀元前1457-1444年まで)までさかのぼる。聖書の出エジプト記の年は紀元前1447年であるため、出エジプト記のファラオはデドゥメスであった可能性がある。
聖書の伝統では、モーセの誕生は紀元前1527年である。つまり、デドゥメスの即位時、モーセは72-85歳であった。旧約聖書では、出エジプトのとき、モーセは80歳であったと記してある。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 282

しかし、王はなお愚かな行為を続け、モーセは夜に雹を降らせ、地震を起こした。そのため地震を生き延びた人は雹で殺された。雹から避難した者たちは地震で死んだ。そのとき、すべての家が倒れ、ほとんどの寺院が崩れた。
  - Artapanus, Peri Ioudaion

「確かに、大地はろくろのように回転した。街は破壊された。上エジプトは乾いた(破壊された?)。
すべては破壊された。
住居は1分で崩れた。
ああ、大地は音をたてるのを止め、動揺(騒音)は収まった。
  - Papyrus of Ipuwer 2:8, 2:11, 3:13, 7:4

ヘブライ語のraashは騒音、動乱、地震を意味する。地震にはしばしば大きな音が伴うことがあり、地下から唸るような轟音が聞こえ、音の現象は隆起に名前を与える。
  - Immanuel Velikovsky, Ages in Chaos

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれた
  - 出エジプト記:12:29

ヘブライ語で「初子」はbekoreであり、ヘブライ語で「選ばれた」はbakhur(意味は若者を選ぶ)である。両方の単語とも、語幹bakharの意味は「主な根っこ」である。これらの2つの言葉の間には、聖書と明確な繋がりがある。神が「わたしの選んだイスラエル」と呼ぶとき、ヘブライ語ではIsrael bechiriまたはIsrael bechoriである。神が「私の長子イスラエル」と呼ぶときはIsrael bekhoriである。従って、エジプトの長子の死に関する章句は修辞法として理解し、「エジプトの選ばれた」または現代用語では「エジプトの花」として理解すべきである。おそらくファラオ・デドゥメスの長男であった皇太子の死に擬人化された、ヤハウェの処罰によってエジプトの未来は短くなった。
  - David M. Rohl, A Test of Time: The Bible from Myth to History (1995), p. 284

ハガダー書の伝承によると、長子だけでなく、エジプトの人口の多くが、十の災いで失われた。
  - Immanuel Velikovsky, Ages in Chaos

「死人が出なかった家は一軒もなかった」
  - 出エジプト記:12:30

 聖書の日付によると、出エジプトはテラ島が噴火した、大災害のときに起こった可能性がある。


シナイ半島

(1) エジプトの発掘

比較神話学の観点から、旧約聖書の出エジプトの記述に迫ると、これはこれらの特定の伝承が私たちにとって馴染みのものでない神話要素の痕跡を含んでいることは明らかであり、宇宙誕生神話の典型であると認識する。例えば、多くの民族で、偉大な神/英雄が自分たちの祖先を究極の故郷へ導いたという物語がある。イタリアの最初の移住者は火星に導かれた。北欧人はオーディンに導かれて移住した。古代アステカ人たちは、ウィツィロポチトリに従ってメキシコにやってきた。昔はエウヘメリズム(王や英雄を神に祭り上げること)的解釈が一般的であった。例えば、現在のように実在の男が指揮した実際の移住は、どうしようもなく素朴すぎる。
  - Efemeral Research Foundation, "Exploring the Saturn Myth"

ユダヤ人の物語は、ヤハウェがエジプト捕囚から彼らを救い出し、その指導者モーセや人々が故郷であるシナイ山で神に会い、お告げをきくというものである。この出会いの物語は出エジプト記19-34章で語られており、複数の異なる物語、立法、神と人との出会いの概念を組み合わせています。それらは複雑に混ざりあった素晴らしい物語であり、その一部は学者たちに議論され、紀元前7-6世紀であると年代が決定されている。これには有名な十戒が含まれているが、既存の形式のテキストを十戒に分割しようとする従来の試みはすべて、まともなものではない。[E. Neilson, The Ten Commandments in New Perspective]それらは10個ではなく、それらは明白にシナイ山の神がモーセに与えた本来の命令ではない。保守的な推測では、最近、その起源を紀元前10世紀のイスラエル北部の王国と推定している。
  - Robin Lane Fox, The Unauthorized Version

ユダヤの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。
  - 出エジプト記12:37 -38

しかし、そのような大人数が気づかれずに移動し、全員が砂漠で生き延びることは不可能であったはずである。おそらくこの数字はダビデの時代(紀元前10世紀、士師記が編纂された時代)、ユダヤの国勢調査が行われたときのものであり、出エジプトの時代に戻って反映されたものである。
  - Great Events of Bible Times

60万人の徴兵適齢者男性は、女子供を合わせると合計で2-3百万人を意味する。その規模で行進した場合、非常に近づいた状態であっても、彼らはエジプトからシナイ半島まで延びていたことが指摘されている。現在の学者によると、より現実的な出エジプトに関わる人々の数はせいぜい2000-6000人程度だろう。
  - David Daiches, Moses - Man in the Wilderness

同意の下でエジプトを去ったヒクソスについての、ヨセフスの記述とも比較。


(2) シナイ半島でのセム族の採掘

逃亡するユダヤ人が選ぶ最も可能性の高い経路は、シナイ半島西部の砂漠のワジ(雨期のときのみ水が流れる涸れ川)に沿って南にェベル・ムーサーまで行く道である。

紀元前3000年のエジプトの初期王朝の時代、シナイ半島にはファラオの軍隊が領土に侵入することを抵抗したセム系の銅製錬とトルコ石採掘の住人たちが多く暮らしていた。かなり大規模な工業冶金事業の存在を確認できた。銅山、鉱山従事者の住居、銅製錬施設がシナイ半島南部の西側からアカバ湾の先端にあるエイラトまで広がっていた。
  - Beno Rothenberg, Sinai Explorations 1967-1972

考古学的発見および最初のファラオによって敗北および捕らえられた「アジア系の遊牧民」の描写は、学者たちの間では、最初にエジプト人がセム系部族によって開発されていた鉱山を襲ったと理解されている。実際、トルコ石のエジプト名はmafka-t(彼らはシナイ半島をマフカットの土地と呼んだ)であり、語幹はセム系の動詞で(採掘する、切断して抽出する)である。これらの鉱山エリアは女神ハトホルの領域にあり、シナイ半島の女神とか、マフカットの女神として知られていた。
  - Zecharia Sitchin, The Stairway to Heaven

アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
  - 出エジプト記32:2-5

エジプトのハトホルはビブロスの街の女神と同一視されていた(最初はこの同定が非常に困難であった)。彼女はエジプトの葬祭文書では「ハトホル、バビロスの女神」と呼ばれ、エジプトのすべての死者にとって重要であった。彼女は死者を運ぶ船の船頭と考えられていた。
  - Siegfried Morenz, Egyptian Religion

愛、美しさ、喜びの女神ハトホルオシリス神の妻であり、しばしば牛の形で崇拝されていた。母および死の女神として崇拝され、彼女の神殿はデンデラにあった。

シナイ半島の南中部にある厳しい高地にある「サラービート・アル=ハーディム」(シナイ山から約50マイル離れている)の頂上の平地は、モーセが暮らしていたと考えられる集落の遺跡である。この遺跡には[女神ハトホルの]壮大なエジプト神殿のオベリスク、祭壇、優雅な柱が多くある。
1904-5
年、英国の偉大な考古学者William Finders Petrie卿がそこから数枚の石版を発掘した。これらの石版には、奇妙な絵文字が刻まれており、かなり後になって、古代ヘブライ後に関連するセム語/カナン語に属していることが証明された。
サラービート・アル=ハーディムの集落は、紀元前1990年から紀元前1190年頃まで、銅とトルコ石の採掘と製造の重要な中心地であった。これらの日付は、出エジプトの直前、紀元前13世紀にモーセがここにいたという仮定に、年代の誤りがなかったことを意味する。
  - Graham Hancock, The Sign and the Seal


神との契約

(1) 山の上のモーセ

最新の4つの基礎資料(モーセ五書、創世記から民数記の終わりまで)は祭司が著者である。彼は文章を自分で書き、紀元前540年頃より古くはなく、おそらくバビロン捕囚が終わった頃(紀元前530-500年頃)であろう。出エジプトと荒野の旅の後で、シナイ半島にいた著者が関わっていたことは契約ではなく、神が選んだ人々を結束させ、祭司のいるテントのような幕屋を建設することであった。この幕屋と祭司は、約束の地で最終的に神殿と聖職者を目指していた。なぜなら、彼らは真の祭祀であり、シナイ半島での偉大な出来事であったからだ。
  - Robin Lane Fox, The Unauthorized Version

モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。
  - 出エジプト記19:312-13

シナイ山がジェベル・ムーサー、ジェベル・サフサファ、セラビトのいずれであったとしても、モーセの真の目的が契約の箱を作り、特定の山頂で見つかることが知っていた原材料である何らかの偉大なエネルギー源をその中に納めることであったのではないだろうか?
  - Graham Hancock, The Sign and the Seal

三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いた。宿営にいた民は皆、震えた。そして、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体(ほとんどのヘブライ語写本ではこの様になっている。少数のヘブライ語写本と七十人訳聖書は「すべての人々」とする)が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いた。モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
  - 出エジプト記19:16 -19

モーセの権威に必要な神の火の降下は決まった日にケナイト族(ケニ人)が手配した。この日は誰も山に登ることは許されなかった。彼らは大きな火を燃やし、煙が発生した。彼らは金属板を叩き、煙の中で松明を動かし、トランペット(shfar)を繰り返し大きく吹いて、人々を山の下に連れていくように合図した。モーセが語るように、彼らは銅鑼の音で答えた。目的は人々に畏敬の念を抱かせることだった。
  - B.D. Eerdmans

モーセが語るシナイ山で起こった不思議は、イスラエルにエジプト同胞の支部を設立したときに、モーセが彼の民に伝えたエジプトの始まりについてのベールに包まれた説明の一部である。
  - エジプト神官マネト(紀元前3世紀)

畏敬の念を抱かせる絵の背後に隠されているいくつかの事実としてのプロセスに侵入しようとするすべての試みは完全に失敗に終わった。
  - Martin Buber, The Kingship of God

モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はユダヤの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
  - 出エジプト記24:15-18

ユダヤの伝承によると、アブラハムはモリア山(エルサレムで最も神聖な山)を遠くから認識した。彼はその上に「地上から天に届く炎の柱、神の栄光が見られる重い雲」を見た。この文言は、シナイ山に主が降り立つときの聖書の記述とほぼ同一である。
  - Zecharia Sitchin, The Stairway to Heaven

モーセが戻ると、金の子牛(ハトホルの像?)を崇拝している背信のユダヤ人を見つけ、彼は石版を破壊した。

彼は金の子牛を廃棄し、3000名の偶像崇拝者を処刑し、秩序を回復した。モーセは山頂に戻り、さらに四十日四十夜そこに留まったあとで、2枚の新しい石板を受け取った。「顔の肌が光を放つ」のは二度目のことである
  - 出エジプト記34:29

古代のセムの神ハダド(山、嵐、それらによってもたらされる豊穣の神)は、シリアのレリーフでは雄牛の上に立って表された。彼の崇拝はカナンの地で広まった。雄牛は神の座であり、神自身の姿ではない。アロンが人々の要望に応じて像を作ったとき、彼自身はヤハウェに背いたとは考えていなかった。人々が金の子牛を見て叫び声を上げたとき、彼はその前に祭壇を築き、アロンは「明日、主の祭りを行う」と宣言した。言い換えれば、アロンは人々から要望されたヤハウェの象徴的な姿を示したと言える。「わたしをおいて他に神があってはならない」という命令でなく、次の命令「いかなるものの形も造ってはならない」が困難であったのだ。
  - David Daiches, Moses - Man in the Wilderness

ヤロブアムが作った2つの金の雄牛について彼は、「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と言っている。
  - 列王記上1228

これは紀元前10世紀後半に、ユダヤでは神は子牛(または小さな雄牛)の形で崇拝されていたという伝統を示しており、シナイ山の前からの亡命の物語に関連していた。
  - David Daiches, Moses - Man in the Wilderness

金の雄牛の物語の1つはおそらく、ヤハウェおよびモーセへの忠誠のため、レビ族の祭司としての嗣業を説明することであった。王国分裂の時期におそらく書かれた物語のもう1つの目的は、イスラエル北部王国の牛崇拝を暗に非難することであった。
  - Great Events of Bible Times


(2) 契約

契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言った。
  - 出エジプト記24:7

出エジプト記24章で語られる神とユダヤ部族との間の契約は、ヒッタイト帝国の宗主権条約(王と家臣の間)およびラガシュの王子ウルカギナ(紀元前2400年)と彼の改革に関連した神ニンギルスとの間の契約と比較される。しかし、出エジプト記の契約は独特である。これはさまよう部族間の間の契約であり、契約によって民族となり、自然と歴史両方の神がバアル(主であり神)になり、バアルは二元性と交配の意味を持ち、性的な豊穣崇拝と関連していた。しかし、彼らの王であるメレクは絶対君主として君臨し、地上の支配者の必要性を排除し、神聖な王の意思を解釈する仲介者のみを必要とした。

この契約には、個人の身分と権利、死刑、人身損害、盗難と強盗、姦通についての様々な法律、偶像崇拝の習慣、儀式のおきて、すべての人の間に平等な正義の重要性、最後に安息の年、安息日、年3回の祭事についての宗教カレンダーを扱っている。法律、道徳、宗教上のおきての混合はモーセ五書に見られるその他の規制のリスト(レビ記17章のいわゆる「律法」および申命記12章から26章の律法)だけに見られるものではなく、その他の古代中近東の掟にも見られる。契約の書と初期の楔形文字法典(例えばイシン市のリピト・イシュタル(紀元前1870年頃)が制定したシュメールの法典、エシュヌンナの王国のアッカド語の法典(年代不明だがほぼ同時代)、有名なバビロニアのハンムラビ法典(紀元前17世紀初頭)もアッカド語で書かれていた)の間には多くの類似点がある。
契約の書の中の多くの律法は決疑論として知られる形式であり、基本的な形式はすべての古代中近東の法典に共通の「もし~ならば~である」(もし雄牛を1頭盗んだ人がいれば、彼は雌牛5頭を返さなければならない)というものである。これは二人称単数の聞き手に宛てられた直接命令(汝~をすべき)を与える十戒の「恒真」形式とは大きく異なる。
  - Robin Lane Fox, The Unauthorized Version

十戒はまたエジプトの死者の書の5つの否定(~してはならない)と同じである。

契約の書は明白に古い時代を起源とする痕跡がある。決疑論自体は古代のものである。語彙は古い。君主制の示唆はないが、背景には家族を基本単位として組織された部族社会がある。商売、身分階級、職業についての法律はない。中央法執行機関の示唆はないが、非宗教的な違反に対する法的な罰則は被害者またはその近親者のために作られている。他の古代中近東の法典との類似について記す。同一の物語は出エジプト記21:4(主人が奴隷に妻を与え、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合)と主人から妻を与えられたハビル奴隷の場合のヌジ文書は驚くほど具体的な類似点がある。奴隷が自由の身になる意思を放棄するために必要な手続きもまた、ヌジ文書と同じである。これはすべて、確かに紀元前1000年頃にユダヤの君主制が成立する以前に起源を持つことを示唆している。そして、これは遊牧民ではなく、定住農業を前提としている。John Brightの「A History of Israel」の言葉を借りれば彼らがパレスチナに定住したときの「士師記の時代(紀元前1200-1020年)のユダヤの標準的な司法手続き」である。
  - David Daiches, Moses - Man in the Wilderness

主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛。赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。
  - 出エジプト記25:1-9

幕屋はヘブライ語でohel mo'ed、つまり会議場のテントまたはmishkan、住居と呼ばれていた。後者のものは、元々は遊牧民の一時的な住まい、つまりテントを意味していた。
  - Great Events of Bible Times


(3) 割礼の儀式

ユダヤ人は40年間(これは中東の慣習では「長い期間」を意味する)荒野を彷徨いながら、天からのパン(マナ)に頼って生き延びていたとされる。

この間、ユダヤ人は「シナイ半島の獰猛な部族を征服し、トランスヨルダン地方を征服し、ミデアン人を滅ぼし、彼らに反対するすべてを蹂躙した。最終的に40年間の放浪の終わり、彼らはエリコの反対側のモアブの平野にテントを張った。ヌンの子ヨシュアはモーセの後継者として指名され、契約の箱を授けられた。
  - Graham Hancock, The Sign and the Seal

あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。
  - ヨシュア記3:3-4

祭司またはレビ族はアロンの男系子孫である世襲カーストであった。彼らはいかなる商売や職業に就くことも許されていなかったが、人々が提供する奉納物で暮らすことを強制され、すべての時間を宗教的な奉仕に従事した。
  - George Sassoon and Rodney Dale, The Manna Machine

エジプトを出たレビ族(出エジプトというよりも追放)は、彼らだけで定住できなかった。彼らは別の遊牧集団である、ユダヤ教徒と協力しなければならなかった。ユダヤ教徒はツァドクから続く独自の祭祀がおり、そのためレビ族の祭祀とツァドクの祭祀の間で競合が生まれた。アドナイおよびヤハウェは1つの神の競合する名前となった。ダビデ王および祭司ツァドクによって、ヤハウェが優勢な名称となった。
  - Paul Trejo (pet@netcom.com)

エジプトでは、割礼の儀式の宗教的な側面は、オシリスとイシスの息子ホルスが亡くなり、アメンタ(地下世界)の秘密の一部として復活したという事実に明確に説明されており、彼は割礼の絵画の像として表されている。
  - Brad Steiger, Kahuna Magic

イスラエルは割礼を実施した多くの国の1つに過ぎず、初期の頃からユダヤの伝統では神との間、およびアブラハムとその子孫の間の契約の印と見なされていた(創世記18:11-12を参照)。しかし、聖書で規定されている割礼は、ユダヤ人の隣人である異教徒の間で一般的な儀式についての全否定および儀式的であろうとなかろうとあらゆる種類の身体の切除の禁止にもかかわらず奇妙であるという点で注目に値する。禁止は動物にも及んだ。割礼の起源およびユダヤの伝統へ採用された経緯は謎のままである。
割礼は、中東で割礼を実施していなかった少数の部族であるペリシテ人とユダヤ人が対立した以降のみ、目につくようになった。
  - David Daiches, Moses - Man in the Wilderness

出エジプトの前、ヘブライ人はエジプトとの接触を通じて、手当たり次第に割礼していた。金の雄牛の物語の時代、砂漠に入った成人たちは割礼を受けたが、その後、モーセはその出来事との関連でその習慣を禁止した。そのため、砂漠で生まれた赤子は誰も割礼を受けなかった。
  - George Sassoon and Rodney Dale, The Manna Machine

ヨシュアは、自ら火打ち石の刃物を作り、ギブアト・アラロトでイスラエルの人々に割礼を施した。ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。すなわちエジプトを出て来たすべての民、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだ。出て来た民は皆、割礼を受けていたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていなかったからである。
  - ヨシュア記5:3以降

この割礼は熱心な軍指揮官であるヨシュアにとっては奇妙であった。彼は全軍の戦闘力を完全に無力化していた。自分の兵士たちを敵の中に進軍させ、無力化するのは愚かである。しかし神がそう命じたため、ヨシュアはそれを行った。
  - Francis Schaeffer, Joshua and the Flow of Biblical History

(かつてカナンであった場所の)最近の考古学的調査により、大量に破壊された街や都市が発掘され、出エジプトの時代は中期青銅器時代の後期であるという証拠が見つかった。その年代は、出エジプトがヒクソスの追放と紀元前15世紀半ばの間の100年間のどこかで起こった。
  - Christopher Knight & Robert Lomas, The Hiram Key: Pharaohs, Freemasons and the Discovery of the Secret Scrolls of Jesus