みなさまお待たせしました。このページは私がDennis Stallingsさんに一年ほど前に質問し、その返信を許可をいただき翻訳したものです。(なにぶんぐうたらな性分なもので時間がかかってしまいましたが。)ここでの一人称"私"はデニスさんのことです。
なお彼のサイトではさらに詳しくLevitovの解決について検証を行っています。興味のある方は

Catharism, Levitov, and the Voynich Manuscript
http://www2.micro-net.com/~ixohoxi/voy/levitov2.htm
をお奨めいたします。

ではここから始まります。

> レヴィトフの書"Solution Of The Voynich Manuscript"をどう考えますか?

ここに私がレヴィトフの解読について投稿したものがあります。

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ヴォイニッチメーリングリストの会員は誰一人として彼の解読を正しいものとは考えていません。

Jacques Guyは言語学の立場からレヴィトフを批判しています。彼の批評の全文は、
http://www.research.att.com/~reeds/voynich/rand/levitov
で読むことができます。

レヴィトフの解読は、私が過去にカタリ派の歴史を投稿したものと矛盾しています。カタリ派については正しい歴史的記録が残されています。おすすめできるカタリ派の歴史は、G C H Nullensのキリスト教の異端・異教についてのサイトから、
http://www.nullensc.dircon.co.uk/chh/contents.htm

またカタリ派の記録は現存していて、
http://home.sol.no/~noetic/cathtx.htm
で読むことができます。

このサイトでのApparelhamentumとTraditioは、マッケナ(Terence McKenna)がレヴィトフの論評でふれた、リヨンのカタリ派儀礼書(Cathar Ritual of Lyon)からのものです。(これらの詳細な文章はThe Treasure of Montsegur, Birks and Gilbertからです。)

またWakefieldとEvansの書"Heresies of the High Middle Ages"は大きな図書館なら見つけることができるでしょう。この本の中には素晴らしいリヨンの儀礼書に関する研究と、いくつかのカタリ派の文章があります。これら全てから分かることは、カタリ派はレヴィトフのいうような「イシス崇拝」ではなく「キリスト教的な信仰」であったことがはっきりと分かります。

カタリ派の信仰は、キリスト教が変化した形でした。それは全くマニ教的であり、物質を悪、精霊を善と見なしていました。パルフェ(the perfects)と呼ばれる完全な信者はセックスを避け、菜食し、しばしば断食を行い、修道士のような規律を生きていました。大多数の一般信者は普通の生活をしていました。

カタリ派の洗礼はコンソラメンタム(consolamentum)という、パルフェの按手による、精霊の洗礼でした。これを受ければ贖罪されますが、一回きりのことです。コンソラメンタムを受けた後は、パルフェのように厳格な生活を送らなくてはなりません。従って一般の信者はこの儀式を受けることを死の直前まで延ばしました。(初期のキリスト教教会にもそのようなことが主流であった時期があります。人々は洗礼を受けるのを臨終まで延ばしました。)

1300年以降の後期カタリ派の記録では、臨終でコンソラメンタムの儀式を受けた人は死ぬまで断食しました。この死ぬ前の断食がエンドゥラ(endura)です。それは自殺の儀式であったとは考えられてはいません。その上レヴィトフの言う、「イシス神との安楽死の儀式であった」エンドゥラと関係が見られません。

私はカタリ派のエンドゥラについて下記のサイトに質問をしました。
Centre d'Etudes Cathares (カタリ派研究センター)
http://newescape.fr/Culture/History/Cathares/Ce.Cathares.html

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カタリ派研究センター
所長 Nicolas Gouzyさんへ

今日は。

私が参加しているメーリングリストではカタリ派のエンドゥラについて議論しています。Emmanuel Le Royの"Montaillou"によりますと、臨終の際コンソラメンタムの儀式を受けた後の断食と記述されています。
しかしある人によれば、これはカタリ派の最も後期に加わったもの、特にカタリ派の説教者Authie兄弟がモンタイユーやその周辺で加えられたとなっています。つまりエンドゥラは前期カタリ派のものではないとのことです。コンソラメンタムの儀式を受けた者でも普通の生活を送ったそうです。

それについて詳しく教えていただけませんか?
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From: William Lafarge
Subject: Re: カタリ派のエンドゥラに関して。

今日は。エンドゥラについてです。

コンソラメンタムの儀式を受けた人は自殺のため飢え死にをしなければならなかったかとのことですが、そう主張することはできません。この説がいまなお多数の秘教者(esotericist)たちや不勉強な歴史家たちの間に知れ渡っているのは事実です。

Vaux de CernayやAlain de Lille、Moneta de Cremoneといった暴力的反異端のカトリックが注目し、記述する「自殺の儀式・殺人の儀式」といったものの痕跡はありません。彼らはそれが本当に行われたかという議論を十分にしていません。南フランスの異端審問でも自殺の儀式であったとの証明はされていません。

エンドゥラの出現には14世紀に入った初めの10年を待たなければならなりませんでした。1300年から1320年まで20のケースが過激で不安定な状況の下、コンソラメンタムと関連した断食の儀式がはっきりと確認できます。あなたが触れたように、最も貧しい入信者で最後のパルフェは、コンソラメンタムの儀式を新たに受けた者に、贖罪の断食を進めている。しかしこれはAuthie兄弟ではないが。

要約すると、エンドゥラが宗教的なものであったか否かははっきりとは分からない。しかしこれが制度化されたものではなく、そして強調しておきたいのは、パルフェが自殺の儀式を勧めたことなど決してないということだ。

私はさらなる情報としてフォトコピーを送ろう。住所を教えてほしい。あなたが参加しているエンドゥラフォーラムのほかの参加者に私たちのサイトに来るように勧めて欲しい。

それでは。

Nicolas Gousy
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Emmanuel Le Royの"Montaillou"ではエンドゥラに関する鮮明な証言がある。モンタイユーにすむBrune Pourcelはフルニエの尋問に対しこう証言している。
15年か17年前の復活祭の夕方に話してくれたことなんだけれど、Guillaume Belotとその息子Raymond BenetとRixende JuliaがNa Roquaを家に連れてきたそうだ。彼女はほとんど死にそうで、すでに受礼を済ませていた。そして彼らは私に向かってこう言った。「彼女に飲み物や、食べ物を与えないでくれ。絶対にだぞ!」
その夜はRixende JuliaとAlazais Pellisseirと私が寝ないでNa Roquaと一緒にいた。私たちは彼女に「何か話してくれ、何か言ってくれ」と言い続けた。しかし彼女は口を開かなかった。私は彼女にソルトポークのスープを飲ませようとしたが、彼女は口を開けなかった。私たちが何か飲ませようとしてもかたく唇は閉ざしたままであった。彼女は二日二晩生き三日目の朝死んだ。彼女が死につつあるとき二羽のフクロウが私の家の屋根にとまっていた。フクロウが鳴いているのを私は聞いたが、彼らは私にこう言ったんだ。「悪魔がNa Roquaの魂をいまさらっていったんだ」って。

以上、カタリ派は古代のイシス信仰であるとのレヴィトフの主張とは全く似ていない。そしてVoynich中のニンフが浴槽の中で血管を切り出血死しているとは、事実ではない。

それでは。
Dennis S.より