アルク

 

アルビジョア十字軍の後、シモン・ド・モンフォールが配下のジル・ド・ボワサンにこの地を治めるように命じ、1284年に城が構築された。この場所から徒歩 10分くらい同じアルクの街には、元アルクの市長でカタリ派を研究していたデオダット・ロシュが設立したカタリ派の博物館もある。

アルビ(サン・セシル大聖堂)

アルビはカタリ派の中心地ではなかった。しかし、サン・ベルナールが1145年にアルビの街に説教にやってきて、この住人たちの中に異端者がいることを見つ け、それ以来南フランスのカタリ派はアルビジョア派と呼ばれるようになった。その名前にもかかわらず、住人たちはシモン・ド・モンフォールを支持する側に立 ち、アルビジョア十字軍の間も街は影響を受けなかった。

ヴィルルージュ・テルムネス

この街は1321年、最後のパルフェ、ギョーム・ベリバステが捕らえられた場所である。中心部には、彼の足跡を紹介した博物館がある。

ガラムス渓谷


クストーサ

麓のクイザの街からレンヌ・ル・シャトーへ登る道の途中、向かい側に見える城の廃墟がクストーサ城址です。

元々の城はラゼス副伯トランカヴェルによって12世紀に構築される。1210年、テルムを後にしたシモン・ド・モンフォールの十字軍はクストーサの城を見つ けるが、すでに守備隊は城を放棄していたため、軍勢はそのままプイベールに向かった。

ケリビュス


アルビジョア十字軍の時代、カタリ派の避難民を受け入れ、モンセギュールと共に、最後まで抵抗を続けた城。1255年、領主シャベール・ド・バルベイラは降伏し、 ケリビュスはフランス王に引き渡された。

ピュイヴェール

1170年、この地でトルバドールの会議が開かれた。十字軍の時代、この地はベルナール・ド・コンゴストが所有し、妻はカタリ派であり、ベルナールもモンセギュー ルで死んだ。近くにはトルバドールの楽器を展示した博物館がある。

ピュイローラン

十字軍の間、領主ピエール・カタラはシモン・ド・モンフォールの攻撃に耐えた。モンセギュール陥落後、最終的に城は降伏し、フランス王の物となった。その後はフラ ンスとスペインとの戦争に使われた。

フォワ

現在はアリエージュ県の県庁所在地。アルビジョア十字軍の時代、フォワ伯はカタリ派を保護し、フォワ伯レモン・ロジェの妹エスクラモンドはカタリ派のパル フェとなった。シモン・ド・モンフォールはいくども城の攻略を試みるも、この城が陥落したことはなかった。

フォンフロアッド修道院


カタリ派に対抗するため、シトー会はこの地に修道院を建てた。現在は修道院としては使われておらず、個人の所有。一日数回のガイドツアーが行われている。

ペールペテルテューズ


ペールペテルテューズの領主ギレーム・ド・ペールペテルテューズはシモン・ド・モンフォールに中世を誓ったため、十字軍からの攻撃は受けなかった。後に反旗を翻す も、ピュイローレンで捕らえられ、破門される。

ベジエ


1209年、十字軍の包囲の中、異端者の引渡しを拒んだベジエの全住人はこの教会に避難し、異端・正統という信仰にかかわらず、全員が虐殺された。

モンセギュール


カタリ派の象徴であり、アルビジョア十字軍最大の、そして最後の抵抗の場所。1244年に陥落。


麓の街には博物館があり、モンセギュール攻略時に使われた投石なども展示されている。

モンタイユー

アルビジョア十字軍の終了後も、この辺鄙な地にある小さな村にはカタリ派の信仰が残されていた。1318年、パミエの司教ジャック・フルニエ(後の教皇ベネ ディクト12世)によってこの村の全住民に対する尋問が行われ、その記録が残された。近年になり、その記録が歴史家エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリエによっ て明らかにされ、その地名が一躍有名になった。村には僅かな遺跡と、小さなカタリ派の資料館が存在する。

ラストゥール


この地には、Cabaret、Quertinheux、Surdespine、Tour Regineという4つの城が隣り合って存在する。12世紀末、領主はカタリ派の保護を始め、十字軍の攻撃を受けた。1243年最終的にフランス王のものとなっ た。

ロックフィアード

城の最古の記録は1180年まで遡る。アルビジョア十字軍の際には、カタリ派たちの避難場所となった。



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