テンプル騎士団−聖杯伝説

第一章

テンプル騎士団の創設


第一次十字軍

(1) 聖戦の求め

 教会は果てしない流血を止めようと躍起でした。手っ取り早い手段は「神の休戦(水曜日の夜から月曜日の朝までを休戦にすること)」であり、貴族間で「私闘」しない日を指定しました。長期の政策としては戦うキリスト教徒の理想を提供する騎士道の試みであり、元来は戦での功名であったナイト勲位が最終的にはほとんど宗教的なもの、寝ずの番、武器への祝福、貞節の誓いへと捧げられた。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 散文物語はアーサー王のロマンスやガリアのアマディスに、凶暴なものはドンキホーテの中に変わりました。それはローマ帝国の野蛮な侵略者を文明化する、カトリック教会の最良の混合主義の例でした。しかしこの過程には数世紀を要しましたので、他の早い解決が必要でした。
 1095年教皇ウルバヌス二世が638年からイスラム教徒によって占拠されていたエルサレムを取り戻すよう呼びかけたとき、彼の嘆願は異常な熱狂を引き起こしました。パレスチナの重要性は新しいキリストの人間評価によって高められました。情熱の場はエルサレムを指していました。街が異教徒に属していることは、神の法律に反対していました。そして聖戦は野蛮な貴族の破壊的なエネルギーの大きな捌け口となるでしょう。
 聖戦を神の召喚による兵役と考え、既にイギリスや南イタリアで領地を獲得したと同じようなチャンスだと考えました。「Deus li volt」の掛け声がヨーロッパ全体に鳴り響き、全ての身分から好戦的な巡礼者が古代の勝利の賛美歌「Vexilla regis prodeunt」を歌って聖地に集まりました。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 既に第一次十字軍に参加していた騎士は互いに戦士が利欲的に集まった集団からなり、集団規則に従っていた。聖ベルナールによってその貪欲さ、空虚さ、邪悪な暴力を非難されていた騎士は、13世紀の終わりには修道士の巡礼に対応する個々の探求という文学的な騎士の概念を与え始めた。個人的な探索の中に冒険を求めた騎士はしばしば世俗の、エロチックな経験と関連し、それらは十字架によって重大な贖罪を求めた罪人と関係はありません。
 -Peter Partner, The Murderd Magicians

 エルサレムは1099年7月に襲撃されました。狂犬のような略奪の獰猛さは、教会が野蛮な本能のキリスト教化に成功していないことを示しただけでした。聖地の全住民が切り殺されました。ユダヤ人とイスラム教徒、7万人の男、女、子供が3日間猛威を振るった大虐殺で死にました。場所によっては踝まで浸かりながら血の中を歩き、騎手は血をはね返りながら道を行きました。泣きながらこれら信心深い征服者は、虐殺に急いで戻る前に、聖墳墓において祈るために素足になりました。
これらパレスチナに滞在した者は主にフランスの冒険者であり、彼らの土地に戻る者はなく、そこに彼ら自身の土地の封建制を作りました。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 絶え間ない異教徒からの侵略の結果、多くの神の子が死に、教会が弱体化するのを知ったのなら、あなたがじっとしていないことを信じます。我々は兄弟を守るため、教会の自由のため最大限の努力をあなたに求めます。
 -教皇カリストゥス二世、1123年
 

(2) 新しい修道会の設立

 テンプル騎士団は第一次十字軍の直後、エルサレムに生まれました。ソロモン寺院の貧しき騎士修道院は1112-1124年の間に敬虔な戦士の集団が創設した。彼らは巡礼者が上陸するパレスチナの港ヤッファからエルサレムまでの危険な道の警護の任務に就きました。彼らは聖アウグスティヌスの宗教的規則の下に生き、そしてエルサレムの聖母教会の指導と規則がありました。
 -Peter Partner, The Murderd Magicians

 1104年、シャンパーニュ伯はエルサレムから戻ったばかりの少なくとも一人の位の高い貴族と秘密会議で会いました。封建君主のアンドレ・ド・モンバールも出席していました。
 -Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail

 この秘密会議のすぐ後にユーグは聖地に旅立ち、そこに1108年まで逗留しました。彼は1114年に短期帰国し、シャンパーニュに戻り、クレヴォーの領地を聖ベルナールに寄進しました。公式の記録によれば、4年後ユーグ・ド・パイヤンは彼の従者、親類、アンドレ・ド・モンバールと7人の仲間と共に任務に旅立ち、初期のテンプル騎士団を作りました。1125年にシャンパーニュ伯ユーグ自身がこの新しい修道会に参加しました。
 -Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truce Unveiled

 ユーグ・ド・パイヤンはシャンパーニュ伯と同様、トロワ伯の分家でもありました。
 1123年の文書によると、ユーグを「テンプル騎士団の棟梁(Magister Militum Templi)」としています。おそらく重要なのはMagister Militumが後のローマ帝国の最高軍司令官の称号であったことです。しかし彼の小さな集団は単なる志願同胞会であり、最近の研究では彼らが新規入会者を見つけるのが困難であり、解散間際であったことを示しています。ユーグは規則を求めない別の十字軍に関心を向けました。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 テンプル騎士団は名前をエルサレムのソロモン王によって立てられた寺院にちなんで「militia templi(テンプルの戦士)」とした。彼らは王によりそのそばの土地を割り当てられました。
 新しい修道会の完全なオリジナルの称号は「Pauperes commilitones Christi Templique Salomonis」、キリストとソロモン寺院の貧しき同胞戦士。
彼らの初めの任務はエルサレムへの道を守ることでした。しかし自発的な警察力の役割を引き受けるようになるまでにそれほど時間はかかりませんでした。
 -Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail - A Modern Quest for the True Grail

 ある神に仕える騎士階級の貴族たちが、大司教の保護下で世俗の規範の中で神に仕えながら、貞節と服従と非所有のもと生きたいと公言した。これらの中で初めてかつ最も重要な尊敬すべき男に、ユーグ・ド・パイヤンとジョフロワ・ド・サントメールがいた。彼らは教会も、住む場所もなかったので、エルサレム王ボードワン二世は彼らに一時的に寺院の南側下に持っていた彼の王宮の一室を住居として与えた。彼らの職業の第一要素は彼らに、大司教や他の司教による罪の減刑のために、最大限の努力で特に巡礼者を泥棒や強盗らの安全のために道路を守ることが命じられました。
 -William, Archbishop of Tyre

 ボードワン王はキリスト騎士たちを歓迎し、ソロモン神殿があったといわれる場所の上、アル=アクサ寺院のとなりに建つ彼の王宮の1/4を与えました。同時に聖堂参事会員は馬小屋を与えました。
 -Peter Partner, The Murderd Magicians
 

(3)シオン修道会とヨハネ派の関係

 テンプル騎士団の背後には秘密の修道会が存在し、それはテンプル騎士団を軍事的、管理上の目的で作った。この修道会は様々な名前で活動し、もっとも知られた名前はプレウリ・ド・シオン(シオン修道会)です。
 -Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail

 プレウリ・ド・シオンは1956年フランスで作られた近代の結社です。中世のシオン修道会とのつながりは、鍵となる歴史文書が偽物と認められたことで疑わしいものとなりました。
 ベイジェント、リー、リンカーンはシャンパーニュ家が関わるシオン修道会(ときにはOrder of Our Lady of sionと言及される)を取り巻く陰謀の証拠を暴露した。彼らの主張では、これらの影にはテンプル騎士団の創設があるとしています。これらの出来事の原動力はシャンパーニュ伯ユーグであり、騎士団の創設を助け、後には1125年自身もテンプル騎士団に加わった。歴史家は、記録は少ないが、ユーグはユーグ・ド・パイヤンと親戚であり、彼は確かに封建領主であったとしました。
 -Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled

 何人かの作家はテンプル騎士団がヨハネ派またはマンダ教の異端に汚染されていたことを指摘した。それら異端はイエスを偽預言者であると非難し、(洗礼者)ヨハネが真のメシアであるとした。テンプル騎士団が中東で活動中に、確かにヨハネ派と関係があった。
 -Baigent, Leigh & Lincoln, The Holy Blood and the Holy Grail

 この教団(ヨハネ派)はキリストの称号をもつ教皇を持ち、太古から断続しないで続く儀式の正当性を主張した。テンプル騎士団の設立時(1118年)には、教皇Theocletesはユーグ・ド・パイヤンと知己であり、彼に教団の奥義と特権を与え、かれに最高位と組織を約束し、最終的に彼を後継者に指名した。
 -Kenneth Mackenzie, The Royal Masonic Cyclopaedia

 少なくともプリウリ・ド・シオンのグランドマスターの二人が、ヨハネ派とのかかわりを明らかにした。ユーグ・ド・パイヤンが密かにヨハネ派であったという主張は19世紀に、初めにバチカンから、次に神智学者達から繰り返された。
 教団の創設を洗礼者ヨハネによるとされているヨハネ派は、教皇の称号がChristos, Anointed, Consecratedとなっていて、教皇権は聖ヨハネから中断しないで続いていると主張します。名をTheocletという人物はテンプル騎士団創設の時期に、この架空の教皇権を主張し、知り合いであったユーグ・ド・パイヤンに彼の偽教会の奥義と希望を与え、最高の階位と王権で誘惑し、最後は彼を後継者に指名しました。
 -Allocution of Pio Nono against the Free Masons

 真のイエスの歴史と初期のキリスト教は(ナザレまたはヨハネ派の)テンプル騎士団の教皇Theocletesによってユーグ・ド・パイヤンに伝えられた。その後パレスチナでさらに高位の更に知的なヨハネ派の騎士数名によって奥義を教えられた。知的自由と唯一の普遍宗教の復興が彼らの秘密の目的だった。服従・清貧・貞節を誓い洗礼者ヨハネの最初の騎士は荒野で泣き、蜂やバッタを食って生き延びた。それらが真のカバラ伝説である。
 -M. P. Blavatsky, Isis Unveiled
 

(4)秘密の目的

 1894年に英国軍人のグループが500ポンドの予算でヘロデ王寺院の下にある遺跡の発掘に取りかかった。Charles Wilson大尉に率いられた王のエンジニア隊は困難な条件のもとで優れた成果を上げ、彼らは地下の部屋とアーチ型の天井を見つけました。そして彼らはまた、彼らが地下の空間を訪れた初めての訪問者ではないことも気づきました。彼らはテンプル騎士団が740年前に残していったものを見つけました。それらは剣、拍車、槍、小さなテンプル十字でした。
 -Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key

 1099年十字軍がエルサレムを征服したとき、彼らは街に残ったユダヤ人から、まさに岩のドームその場所が至聖所であると聞きました。十字軍はイスラム教の岩のドームをソロモン寺院と間違えました。
 -Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail -A Modern Quest for the True Grail

 1118年九人の十字軍騎士が東方で、その中にはジョフロワ・ド・サントメールやユーグ・ド・パイヤンがいたが、コンスタンチノープル大司教の手による宗教儀式をあげた。その司教区は大主教フォティウスの時代から常に秘密裏に、そして公然とローマに反抗していた。テンプル騎士団は公の目的を聖地を訪れるキリスト教徒の保護としていたが、彼らの秘密の目的は預言者エゼキルの設計したソロモン宮殿の再建築であった。
 -General Albert Pike, Morals and Dogma

 九人の騎士の真の目的は、そのエリアを調査し、ある遺物や写本を手に入れ、ユダヤ教や古代エジプトの秘儀を手に入れることであり、それらはおそらくモーゼの時代まで遡る。彼らがこの仕事を果たしたことは間違いなく、そして彼らの発見から得た知識は、騎士団の中で口頭で伝承された。
 -Gaetan Delaforge, The Templar Tradition in the Age of Aquarius

 1960年代Louis Charpentierはそのアイディアの明快さのために注目されなかった2冊の著書のなかで、テンプル騎士団は聖ベルナールにより、ソロモン寺院のアークをヨーロッパに持ってくるように聖地に派遣されたと主張した。彼の証拠は、テンプル騎士団の財力によりヨーロッパのゴシック形式の大聖堂が建設されたこと。それらは部分的には錬金術によって、部分的にはアメリカから(コロンブスより3世紀も前のことです)輸入された銀がラロシェル(フランス)に陸揚げされたものです。
 -Peter Partner, The Murderd Magicians

 多くのユダヤ教、イスラム教の伝説が魂の井戸の底に封印された地球の内部へと続く秘密の抜け道について語る。アークはおそらくソロモン寺院の破壊時にそこに隠され、そして多くの者が、精霊と悪魔に守られ今でもなおそこにあると信じている。おそらく考えられることとしては、ユーグ・ド・パイヤンと後援者のシャンパーニュ伯はアークを見つけるためにテンプル騎士団を組織し、この目的を達するためにテンプルの丘を支配した。
 しかしもしそうであっても、彼らの目的は失敗しました。12世紀は、ある専門家が言うように、「有名な聖遺物の価値は莫大であった。」契約のアークのような唯一重要な聖遺物の所有は巨大な権力に加えて、名声をも騎士団にもたらしたはずである。このことにより、もしテンプル騎士団がアークを発見したのなら、彼らは意気揚揚とヨーロッパに持ち帰ってきただろう。
 -Graham Hancock, The Sign and the Seal

 我々は最近クムランの銅巻物(地中海写本)の複製が直接寺院の祭壇下の「Shith」または「洞穴」に置かれているのを発見しました。その洞穴は中心が環に加工された大理石が被せられていた。これはテンプル騎士団が持ち上げた石で、そこから下の地下ドームへ降りて行ったのでしょうか?
 -Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key

 宮殿(アル=アクサ寺院)の反対側にテンプル騎士団は新たな建物を建てた。それは高さ、長さ、幅、そして全ての地下室と食堂、階段と屋根がその土地の習慣とまったくかけ離れたものでした。実際その屋根はとても高く、私がどれほど高いかを述べても、聞く人はほとんど私を信じれらないでしょう。
 -Theorderic(1174)

 彼は明らかにテンプル騎士団の建築技術はとても進んでおり、特に高くそびえる屋根とアーチに感銘を受けた。高くそびえる屋根とアーチが、12世紀のシャルトルの大聖堂やほかの大聖堂で見られるゴシック様式の建築物と異なる特徴であった。ある観察者は大聖堂が当時の科学技術をはるかに超えたものだとしている。
 -Louis Charpentier, The Mysteries of Chartres Cathedral

 もしテンプルの丘の発掘中にソロモン宮殿に関する巻物、原稿、定理、図面を発見していたとしたら?もしこれらの中にピラミッドや他の古代の建築物の幾何学、割合、バランス、調和の秘密が含まれているとしたらどうでしょう?
 -Graham Hancock, The Sign and the Seal

 そしてもしテンプル騎士団がサン・ベルナールの強力な後援の見返りにこの秘密を共有していたとしたら?
 -Graham Hancock, The Sign and the Seal

 テンプル騎士団の後援者であるサン・ベルナールは初期のゴシック建築の発展と普及に貢献した。(彼はシャルトルの大聖堂が建てられた1134年に権力の最高潮に登り、塔や全ての建物の神聖な幾何学原理の実行を強調した。)
 ゴシック建築は1134年シャルトルの大聖堂の北塔の建築で生まれた。1134年の直前、ベルナールはシャルトルの司教Geoffreyと特に親しい友情を育て、ゴシック様式の「一般的ではない熱意」を吹き込み、建築業者らとほとんど毎日の交渉を行った。
 「神とは何ですか?」と尋ねられたとき、彼は「神とは長さ、幅、高さ、深さである」と答えた。
 全ての大建築物は、注意深くそして明らかに深遠な宗教的ミステリーの鍵としてデザインされていました。それで例えば、建築家や石工たちはゲマトリア(数をアルファベットの代わりに用いる古代のヘブライ暗号)を使い、礼拝の句を大建築物の寸法に隠して綴った。同様に彫刻家やガラス屋は通常よりも高位の聖職者の指導の下働いて、人智や過去、聖書の予言的な意味を数千もの異なる仕掛けや、デザインの中に注意深く隠した。(例えば北玄関の絵の中には、説明されない目的地への契約のアークが牛車に乗って避難する様子が描かれている。風化した碑銘「HIC AMICITUR ARCHA CEDERIS」は「ここに契約のアークを隠す」という意味かも知れない。)
 -Graham Hancock, The Sign and the Seal

 1139年教皇インノケンティウス二世(ついでに言えば彼の立候補を熱狂的に支持したのはサン・ベルナールである)は騎士団にユニークな特権を与えた。それは彼らの教会を建築する権利である。この特権はその後十分に行使されました。ロンドンのテンプル教会のような円形の美しい礼拝所は、テンプル騎士団の活動の特徴になりました。
 -Graham Hancock, The Sign and the Seal

 1170年から100年間の間にフランスだけで80以上の大聖堂と、およそ500の小修道院が建てられました。それはかつてエジプトで切出された石よりも多いものです。これらの建物はかつてない驚異的に新しい比率で建てられました。
 -Christopher Knight and Robert Lomas, The Hiram Key

 テンプル騎士団のもっとも大きな影響は、資金と人の東方への移動でした。西ヨーロッパの領地や、教会、農場に建てられた多くの建物は訓練と宣伝のためであったが、それらは少数の例外を除いて慎ましく、実用的なものであった。テンプル教会には標準形は無い。エルサレムの岩のドームや、八角形のエルサレムの聖母教会を連想させる円形や、多角形のものはごく僅かである。しかしほとんどのテンプル教会は通常の半円形構造である。
 -Peter Partner, The Murderd Magicians


サン・ベルナールの支配

(1) 強力な擁護者

 テンプル騎士団が創設された1118-1119年、それは貧しき修道会として、主な目的はヤッファの港と、内陸のエルサレムを結ぶ道をゆく巡礼者の保護であった。しかしこの新興修道会に重大な転換が起こったのは、サン・ベルナールの保護下に入ってからです。彼はテンプル騎士団の創設メンバーの一人、アンドレ・ド・モンベールの甥である。彼が20歳になり修道士になるまで、サン・ベルナールは騎士としてのキャリアを積んでいたが、彼がテンプル騎士団の保護者になると、ブルゴーニュの騎士の理想と信念を吹き込みました。
 -Edward Burman, The Assassins - Holy Killers of Islam

 ベルナールにクレヴォーの領地を寄付したのは、シャンパーニュ伯ユーグでした。そこで彼は彼の大修道院を建設し、そこで彼の帝国を拡大させました。彼はテンプル騎士団の公式スポンサーとなり、彼の影響力はトロワの公会議で教皇の任命に影響を与え、これはユーグの首都であった。ベルナールの弟子、教皇インケンティウス二世(以前はクレヴォーの修道士であった)はテンプル騎士団にローマ教皇を除くすべてへの忠誠からの自由を与えた。
 -Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truce Unveiled

 トロワで公会議が開かれた1128年、28歳であったクレヴォーのベルナールはテンプル騎士団の規則を作る手助けを依頼された。彼はそれ以上のことを為した。彼は最も強い擁護を主張し、彼らが大地からの贈り物と、お金に支えられ、そして良き家族の男達に罪深い生活を捨て、テンプル騎士団のように剣と十字架をとるように促した。
 -John J. Robinson, Born in Blood

 サン・ベルナールはユーグと強い絆で結ばれ、彼は封建領主の犯罪、不信、強盗、殺人、姦通に変換される余剰エネルギーと繋がる手段を持っていた。彼はユーグに規則を編纂し、新入者を見つけることを約束した。彼らは主のために闘い、キリストの戦士であった。軍のキリスト教性は、真の創始者がキリストであったからだ。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 実際、キリストの騎士たちは神の戦いを安心して、決して敵を殺す罪を恐れず、自身の死を恐れず、キリストのために死を与え、それらは決して罪ではなく、むしろ輝かしい報酬に値した。これ故、キリストのために、これ故キリストは達せられる。彼は確かに自由に復讐として敵に死を与え、さらに喜んでキリストの戦士としての安心を見つける。キリストの戦士は安心して死ぬ。彼は彼の興味である死に仕え、キリストの興味は死の中にある。
 -St. Bernard

 ベルナールは俗世の騎士の生活は、虚栄と、不義と、略奪と、盗みに捧げられ堕落し多くの罪がある。それと騎士団の聖なる神への喜びに満ちた生活を比較し、若者にテンプル騎士団の剣をとるよう促した。キリストへ捧げられた貞節と祈りの生活は、不信者への戦いの犠牲となり、どんな罪も、どんな数の罪も十分贖われるものである。基礎としてベルナールは『sceleratos et impius, raptores et homicidas, adulteros(邪悪な不信者、強姦者や殺人、姦通者)』を著し、テンプルの王として参加することで彼らの魂を救った。免罪の保証もまた、破門の命令と同じくこれらの解決法であった。テンプル騎士団としての宣誓は教会に証拠を提出し、そして至高の懺悔は戦時において真の十字架のために、贖罪のための神の要求を満たすことでしょう。
 -John J. Robinson, Dungeon, fire and Sword(1991)

 戦士は子羊よりも温厚で、ライオンよりもどう猛で、穏やかな修道士が勇敢な騎士と結婚したようなので、彼らを何と呼べばよいのか分かりません。男たちはソロモンのテンプル神殿を宝石ではなく武器で、黄金の冠ではなく盾で、鞍や手綱ではなく燭台で飾った。名声ではなく勝利を、虚飾ではなく戦いを求める。彼らは無駄な演説、不要な行動、慎重でない笑い、噂やおしゃべりを無駄なこととして嫌う。大人数にもかかわらず一つの家で、一つの規則に従い、一つの魂と一つの心を持つ。
 -St. Bernard

 別のもう一団の入会者は、馬、鎧、武器をそろえるお金のなかった貧しき騎士でありました。入会に際してこれらの物品は個人的な使用人とともにそろえられました。生きるために十分な食料と土地が与えられました。どれほど自尊心がおとしめられていたかにかかわらず、それらはすぐに回復するでしょう。(ちなみに装備をそろえる重い負担は自由労働者の400日分の給料に相当します。)
 13世紀には、入会者は騎士または親が騎士であることが要求されました。農民の出は騎士の入会には障害であったし、聖職にも同様障害であった。従ってテンプル騎士団も例外ではなかった。破門された入会希望者はまず司教のところへ連れられ、そこで免罪された場合に限りテンプル騎士団に受け入れられた。入会勧誘は道義的な犯罪で有罪とされた騎士の中から行われた。良く知られたフランス版の規則には、テンプル騎士団がしばしば破門された騎士から入会者を募ることが指示されます。ラテン版の規則には、おそらくテンプル騎士団の公の聖職者としての態度と、地方特有の軍の文化の間に緊張関係を示す目的で、度重なるこのような収集を行わないよう禁止命令を与えた。意見は最後まで分かれました。騎士団の草創期から解散時まで、死刑に値する強盗が、騎士団への入会を認められていたことは、不名誉であると言われていました。
 -Peter Partner, The Murdered Magicians

(2) 入会儀式

 入会志願者の許可は週一回行われる総会で行われました。もし盟友の大多数が同意すれば、2,3人のさらに上級の兄弟に調べられました。もし答えが満足なものであったら、つまり彼が自由身分で、貴族で、健康で、正当な出生を持っていたら、かれは棟梁の前に連れられた。
 -Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail ? A Modern Quest for the True Grail

 入会の儀式は厳重な秘密の下普及し、エルサレムの聖母教会の円形の建物とまったく同じくコピーされた建物で行われました。多くのテンプル教会や礼拝堂はこれを考えて円形に建てられ、その中心にはスペインのセジョビアにあるヴェラクルズ教会のように、しばしばキリストの墓の模型が置かれ、2階建てで階段が続く構造であった。あるステージでは、入会者のために特別な儀式が行われ、一瞬の間、地上で至高の神の姿を見ることができ、その前にひれ伏した。
 -Ian Wilson, The Shroud of Turin ? The Burial Cloth of Jesus Christ?

 総会が行われる建物は守られ、儀式は夜、秘密裏に行われ、騎士はテンプル騎士団に入会した。総長は集まった騎士に何度か、新入会者への反対がないかを尋ねた。何も聞かない内に、彼は騎士団の規則を改定し、新入会者が妻や家族を持っていないか、借金や病気を持っていないか、他の(騎士団の)総長に忠誠を持っていないかを尋ねた。新入会者はひざまずき、これらの質問を否定し、テンプル騎士団の使用人や奴隷になることを願い、神と聖母マリアに服従を誓った。
 -Ancient Wisdom and Secret Sects

 テンプル騎士団への入会の儀式の間、神の永遠性と、神の息子の完全性の証明書が作られた。Cassanhasのヨハネ、Noggardaのテンプル騎士団の指導者は、いかにリーダーが入会儀式を宣言し、「汝神を信じ、神が死なず、これからも死なないか」を説いた。
 入会志願者が彼の誓いを立てるとき、彼の手は通常の儀式のように聖書に置かれるのではなく、ミサの中でキリストの身体について言及しているミサ典書の上に置かれます。何人かの司祭、たとえはBertrand de VillersとEtienne de Dijonは二人ともLangresの司教区からやってきたが、彼らはミサのホストが聖変化するところで、「Hoc est enim corpus meum.(これがすなわち私の肉体)」を省略するよう言われたと述べた。
 こうして彼は修道院の慣習に従うこと、聖地を征服する手伝いをすることを誓った。この後、彼はテンプル騎士団に迎えられ、肩に白いマントを掛けられた。司祭は詩篇133を読んだ。
 -Noel Currer-Briggs, The Shroud and the Grail -A Modern Quest for the True Grail

神の人々が一緒に協調して暮らしていくことは、何と素晴らしく、喜ばしいことであろう!
貴重なオイルがアロンの頭やあごひげに流れ落ちたように、彼のローブの襟に落ちます。
それはヘルモン山の露がシオンの丘に落ちるようです。
そこで主は彼の生命が終わらぬようめぐみを与えます。
 -Psalms 133
(3) 清貧と同胞会

 シトー修道会の規則に基づいて、初めに貞節、清貧、服従の3つの基本修道院の誓いができた。貞節は両性にとって重要であった。テンプル騎士団員は例え母や姉妹であっても女性にキスしたり、触れたりしてはならなかった。どんな女性との会話も断念し、しばしば禁止された。テンプル騎士団は羊皮で作られたズボン下を履き、決して脱ぐことはなかった。(この規則はテンプル騎士団が決して風呂に入らないよう命令されていたので、ズボン下を脱がない命令は、性的活動を禁止するためだったと思われる。)テンプル騎士団員は、特に他の団員に裸を見せてはならなかった。修道院の全員が男社会の中においては、闇夜がホモセクシャルを許してしまうかも知れないので、寄宿舎ではランプが一晩中灯されました。
 -John J. Robinson, Born in Blood

 静寂の強調は食堂でサインを使うことにまで発展し、その同じ起源で、シトー派の祭壇装飾品の簡素さの類似が、簡素な武器、馬具、金銀を使っていない引き綱です。宗教儀式は、軍事教練に変わり、静寂の中、両方ともフランス語訳された聖書を読みながら二度の食事があり、とくにヨシュアとマカベアの部分が強調された。残忍な異教徒から聖地を奪還することは、全てユダの残忍な利用、兄弟と彼ら戦闘集団からインスピレーションを受けた。同胞は組になって、もう一方が食事で弱らないかを見た。ワインは食事毎に出されたし、肉は一日3回でした。彼らの禁欲は戦争の困難さであった。それぞれの騎士は3頭の馬を所有することが許されたが、象徴的な例外はライオンであり、襲ったり狩りをすることは禁止された。髪は刈り込み、髭は伸ばさなければならなかった。彼の上司は単に部隊指揮官ではなく、修道院長でもあった。キリスト教の歴史で初めて、戦士が修道士として生活を送ったのであった。
 -Desmond Seward, The Monks of War

 テンプル騎士団の盾は正に聖杯伝説英雄のガラハド卿のものであった。それは純白に大きな赤十字が装飾されたものです。
 テンプル騎士団の象徴は二人の騎士を運ぶ馬であり、清貧と同胞の象徴です。ベルナールは彼の粗野な集団を、俗世の豊かな騎士よりも好意的に見ており、テンプル騎士団は滅多に風呂の入らず、髭はもじゃもじゃで、汗とホコリ、馬具と熱で汚れている。テンプル騎士団は赤十字で飾られた白いマントを纏い、騎士団の創設者によって好まれたまだらの馬の後、Beauseantと呼ばれる白黒の旗の後ろに戦うために乗りました。同じ単語はスローガンとなりました。
 -Ancient Wisdom and Secret Sect

 全てのテンプル騎士団員は上位の団員に対し、即刻服従が要求されます。そして教皇以外の誰に対しても責任を負わず、本質的に非服従のため、死刑までを含む独自の処罰システムを作り上げた。テンプル騎士団にはプライバシーは存在せず、受け取った手紙は棟梁または牧師の前で声を出して読み上げなければなりませんでした。
 テンプル騎士団は戦場で、3対1以下にならなければ、その場合でも退却の命令がなければ、退却してはならなかった。テンプル騎士団に入会した者は、戦場で死ぬことを期待され、そして実際多くの者がそうなった。
 -John J. Robinson, Born in Blood

 シトー修道会は、木の伐採を祈りと考えたように、正しい条件を与えた。テンプル騎士団は同様の態度でイスラム教徒に対応した。サン・ベルナールの言葉では「殺人ではなく、malecide(犯罪者を処刑すること)である。」それは不公正というよりも、不正義の絶滅であり、望まれることである。実際異教徒を殺すことはキリストに栄光を与える栄光を勝ち取ること。戦場での死は殉教者の献身であり、街道で20000人のテンプル騎士団が200年間旅行した。
 ベルナールの才能はゲルマン戦士の儀式を、宗教的な職業に変えました。それは異教の神々が聖人やキリスト教の豊饒の儀式に変成されたように、キリストはヴォーダン(アングロサクソンの神)を追い出してしまいました。
 -Desmond Seward, The Monks of War


第一章:テンプル騎士団の創設
第二章:聖杯の騎士
第三章:聖杯の物語
第四章:テンプル騎士団のミステリー
第五章:テンプル騎士団の最後
第六章:テンプル騎士団の痕跡
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